SORALOG: sound of the universe

Thursday, November 2, 2017

Idris Ackamoor(The Pyramids)インタビュー



8月にアムステルダムで開催されるDekmantel Festivalへの出演に先がけ、The PyramidsのIdris Ackamoorがインタビューに応じてくれた。Cecil Taylorのもとで学んだ体験について、またThe Pyramidsの歴史と、後の世代に与えた影響について語ってもらった。

Idris AckamoorとThe Pyramidsの物語は、ディープなジャズの伝説そのものだ。アヴァン・ジャズの天才Cecil Taylorの教え子によって結成されたThe Pyramidsはジャズ・バンドとして広くアフリカを旅した最初の世代で、ダゴンバ族のドラム・サークルに参加したり、ケニヤでマサイ族と暮らしたり、ラリベラの岩窟教会群を訪ねてまわったりした。ファンキーで変幻自在なアフロ・ジャズと祭り(踊り・儀式)の要素を組み合わせるという現在のスタイルは、その頃の経験に影響されている。アメリカに戻った彼らはThe Pyramidsとして3枚の自主制作版を発表し、繁栄の盛りだったサンフランシスコの音楽シーンのフィクスチャーとなる。そして1977に解散。

数年後には彼らのアルバムはコレクターの間で話題になっており、インターネットの普及にともない、その伝説はさらに広く知られるようになった。新たなファンが増えたことで再発版が作られ、さらには、バンド自体も再始動することになる。過去10年にわたりAckamoorは、数多くの編成でThe Pyramidのツアーや録音をし、新旧のメンバーと共演してきた。復帰作となったアルバムOtherwordlyは2012年に発表され、続いて2016年には活気ほとばしる新作We Be All Africansが、ハズレ無しの安定レーベルStrut Recordからリリースされた。

本名をBruce BakerというAckamoorは1951年に生まれ、シカゴのサウス・サイドで育つ。幼くして音楽のとりこになりサックス、クラリネット、ピアノ、バイオリン、トランペットのレッスンを受けるが、高校ではスポーツに熱中した。「野球が大好きだったんだ」と、Skypeを通じ彼は言った。「でも学校のバンドと野球を両方やるわけにはいかなかった。そのバンドが野球の試合で演奏していたから。だから4年間は野球に専念にして、あとは普通のティーンがするように、パーティしたり、女の子を追いかけたり、勉強したりしてた。」

野球の奨学生として大学に行くが、最初の学期中にある日突然、自分の天職は音楽だと思い悟る。それから彼はオハイオ州イエロースプリングスにある、勤労学生向けの実験的な修学コースと黒人専用の学生寮で知られた教養大学Antioch大学に編入する。その間Ackamoorは、サックスのグルとして知られたClifford Kingからレッスンを受ける。Kingは1930年代にはビッグバンドで演奏しており、シカゴのサックス奏者の多くから先生として慕われていた。


音楽・演劇カンパニーであるCultural Odysseyとしてツアーでテネシー州ノックスヴィルを訪れていたAckamoorはSkypeを通じて我々の質問に答えてくれた。話題は、フリー・ジャズのピアニストであり詩人のCecil Taylorの元で学んだこと、The Pyramidsの結成と復活、現在の編成でのライブ・ショーが観客にとってどんな体験になるのか、などに及んだ。

ーAntioch大学時代にCecil Taylorに学んだわけですが、最も重要な教えはなんだったと思いますか。

Idris Ackamoor: 私は音楽専攻で、自分のバンドを始めた頃だった。それから1年半後くらいに、Cecilと出会った。彼は25人から30人のメンバーから成るnterstellar Black Music Ensembleというグループを指導していて、そこに私も所属していた。メンバーの多くは学生で、彼が以前に教えていた大学からついてきた生徒もいた。私はアルト・セクションの一員で、他にはJameel MoondocやBobby Zenkelなどがいた。Bobbyはフィラデルフィア出身の素晴らしいサックス奏者だ。それからもちろん、The PyramidsのオリジナルメンバーMargaux Simmonsがフルート担当だった。The PyramidsのベーシストKimathi Asanteはそこでベース担当。つまり我々は当時みんなCecilの生徒で、そこは信じられないような学びの場だったんだ。

Cecilのオーディション風景は忘れられない。重要なのは音楽ではなかった。共感の訓練のようなものだったんだ。私たちが音楽家としてどれほど優秀かということは彼はさほど気にしてなくて、彼が探っていたのは、自分が出す指示を私たちがちゃんと受け止めることができるか、ということだった。あと、Cecilに関して驚いたのは、課題音楽を生徒に与える時に、彼が楽譜も音符も使わなかったこと。彼は例えば「じゃあ次はC、GそれからBフラット」というように言って、我々にコードネームだけ書きとらせたんだ。音符じゃなくてね。

ーご自身の音楽制作でもその方式を採用しましたか?

そうだね、そうやったことはあるよ。でも自分が作曲するときは楽譜を使う。Cecilからの影響は、紙に書かれたこと以上に広がりのあるものなんだ。それはもっと、本質に関することであり、即興演奏とは何かということ、自然発生的に音が生まれるとはどういうことなのか、熱意とか気合いとかいうようなことなんだ。Cecilがソロで即興演奏するときの驚くべきエネルギーは、彼のトレードマークだった。演奏というのはつまり、全力で出し切るもの、という考え方だった。拍子もリズムも無い、強烈な、開かれた音楽を作り出すんだ。それはJohn ColtraneのCosmic Musicに似ていた。でもCecilの音楽はごく内向的な面もあった。すごく激しくありながら、とても美しくて詩的でもあったから。彼は音楽を通じて、限界を行き来できた。ちょうど黒人の公民権運動が盛んな時で、怒りが溢れていた時だったから、彼の音楽を怒りの音楽と勘違いした人もたくさんいた。彼の音楽は怒りの音楽ではかった。宇宙の音楽だったんだ。彼は西洋音楽の教育を受けていたけど、アメリカという地に影響を受けたアフリカ系アメリカ人であり、結果として彼の考える即興音楽というのは、音楽に憑依されるという考え方と強く関係していた。アフリカや、ハイチのディアスポラの儀式的音楽にも、憑依という概念や取り憑かれる感覚を作り出すという面がある。それがCecilのやろうとしていたことだ。彼の演奏する姿はまるで、取り憑かれているかのようだったよ。でも同時に彼は、完全なるコントロール下にあったんだ。

ーThe Pyramidsはそのような考え方から生まれたのでしょうか?

Antioch大学には留学プログラムがあったんだ。私はMargauxと共にヨーロッパでジャズバンドを組み現地で仕事をするという内容で申し込んで、結局1年のうちヨーロッパに3ヶ月ほど滞在することになり、残りの期間はアフリカに行って、勉強しながらツアーにも出たりした。MargauxとKimaと一緒にAntioch大学を1972年の夏に発って、フランスのBesançonに辿り着いた。パリでDonald Robinsonというドラマーと会ったんだけど、パリには長居しないことにした。当時のパリはなんていうか、過密とまでは言わないけど、ジャズ・ミュージシャンがたくさんいたんだ。Frank Wright、Muhammed Ali、Dave Burrellなど。そして秋には、アムステルダムに行ってしまうことにした。そこでバンドとして活動を開始した。Margauxがフルート、Kimathiがエレクトリック・ベース、私がアルト。2、3週間後にはDonaldが加わって、Kosmosis、The Octopusなど政府後援のコンサート・ホールで演奏し始めた。当時まだあったParadisoでも演奏したね。ラジオでも演奏したし、とにかくThe Pyramidsとしてたくさんやったんだ。その頃はCecil Taylorの理論から直に影響を受けていて、私たちの音楽はかなり、アバンギャルドだった。燃えたぎる音楽、身体という限界を飛び越えさせる音楽。あるアムステルダムの詩人はそう形容したよ。

ーアフリカは最終的な目的地だったようですが、その音楽からは既に影響を受けていたのでしょうか?

アフリカの影響はまだだったね。最大の影響はCecil Taylorで、そこに自分たち独自の背景であるファンク音楽という影響も少しあった。オリジナルの音楽だったんだ。アフリカに注目していたからアフリカ的なリズムも習得していたけど、その地は未踏だった。1972年の12月にアフリカに辿り着き、ガーナに住むことになった。バンとフェリーでアフリカまで運転していけるはずってDonaldに説き伏せられたんだけど、やってみたらアムステルダムを出たところで車が故障。私はMargauxとKimathiとスペインのマラガに行って、そこから飛行機でタンジールへ、それからモロッコに数週間いて、そこからラバト、カサブランカと周り、今度は飛行機でセネガルのダカールへ行き1週間くらい滞在した。最終的にはガーナのアクラに落ち着いた。

ーアクラではクラブに通って、Hugh Masakelaなどに会っていたんですよね?

Hugh Masakelaはその頃Hedzoleh Soundzとプレイしていたな。クラブも1、2箇所行くところがあったけど、それより身の回りの音楽を何でも聴いていたね。なにしろ市場に行けばそこでバンドが演奏していたし、グリオ(伝統的語り部/吟遊詩人)も道端で演奏していて、ガーナの文化と伝統音楽をめいっぱい吸収していたんだ。Margauxと、人生が変わるような旅もした。バンでガーナ北部に行って、3週間完全に街から離れてブッシュとよばれる森林、サバンナで暮らしたんだ。アシャンティ族の首都であるクマシにも少しだけ滞在した。タマリにも行った。ダゴンバ族の住む街だよ。そこには何日かいて、王様につかえる太鼓奏者に出会って、一緒に演奏した。毎日、彼らは村の広場で演奏していて、僕らを招待してくれたんだ。大きなドラム・サークルのような感じで、15人くらいがドラムとバスドラムを叩いていた。そういう儀式的な演奏に、私たちは参加していたんだ。

タマリの後はバンをボルガタンガに走らせた。ボルガタンガはフラフラ族の街だ。面白い話なんだけど、今ちょうど、私たちがゲスト・ミュージシャンのGuy Oneを迎えて録音した45回転が発売されていて、タイトルはTinoge Ya Ta’a Ba。Guy Oneはフラフラ族の中でも最も名の知れたミュージシャンのひとりで、コロゴという二弦楽器を演奏するんだ。でも45年前、そのGuy Oneがまだ生まれてもいないころ私は彼のお父さん、おじいさんと演奏していたんだ。彼らはフラフラ族の太鼓奏者だったんだよ。

ーガーナの次はどこへ行ったのですか?

ウガンダに行って、それからケニヤに2ヶ月住んで、マサイ族とキクユ族のミュージシャンから学んだ。それからエチオピアに。そこにいる間ずっと、アフリカ音楽を録音していた。エチオピアではラリベラの音楽を録音した。ラリベラは、12世紀に当時の王が作らせたとされる、石を削って出来た建物の教会群(*1)があるところだ。それからオハイオのイエロー・スプリングスに戻って、学校を卒業した。

ーアフリカを旅行中に楽器をいろいろ集めたようですが、独自の方法でそれらを演奏していますね。本式でやることを意識的に避けているのでしょうか?

自分のやり方を探るというのが大事だったんだ。私たちは、いつかアフリカに戻ってアフリカ人になるんだ、という風には決して考えていなかったから。アフリカは私たちの祖先の地だけど、私たちの「ホーム」ではないんだ。私たちのホームは、私たちが住むアメリカだ。私たちがやろうとしているのは、アフリカ系アメリカによって作られた独自の音楽スタイルなんだ。各アルバムで使ったアフリカ楽器は今でも持っていて、ンビラという、親指で引くジンバブエのピアノを特に気に入ってよく使っているんだけど、ジンバブエの熟練奏者のやり方とはかなり違う使い方をしている。だからアフリカ楽器を演奏するときは、アフリカで使われてるやり方をコピーしようとはしてない。そういうつもりは全くないんだ。私の、オリジナルのやり方で使いたいんだ。

ーそのような体験を持ち帰って、The Pyramidsとしてレコーディングを始めるわけですね。

Lalibelaが最初のアルバムだった。私たちはミュージシャンとして、アルバムを自主プロデュースもした最初の世代だった。Cecilはその頃すでに自分のレコードをプロデュースしていた。一般的な音楽レーベルというものに幻滅していたから。同じころ私たちもアルバムをプロデュースし始めた。セルフ・プロュースのアルバムを3枚作ったんだけどLalibelaが最初で、いつも、DIYが流行る前にDIYをやってたんだよ、って言ってる。4トラック・レコーダーでLalibelaを録音して、イエロー・スプリングスの友達にマスタリングしてもらって、シンシナティに行って500枚くらい刷った。そして販売し始めた。コンサートで売り、友達に売り、家族に売り、車のトランクに詰め込んで売っていた。そうやって次の500枚を刷るだけの資金を回収して、次のアルバムKing Of Kingsを同じように作った。

それからほどなくして、そのころ私の弟が住んでいたサンフランシスコに行ってみることにした。3枚目のアルバムBirth Speed Merginはそこで録音した。新しいメンバーもバンドに参加した。ダブル・ベースのHeshima Mark Williams、コンガ奏者として活躍していたKenneth Nash、ドラムのAugusta Lee Collinsなどだ。Kimathiも二人目のベーシストとして戻ってきた。

ーサンフランシスコからはどんな影響を受けましたか?

そこで生まれていた音楽を吸収したよ。Sly & Family Stoneが成功してた。あとは色んなロックが流行っていた。それにSun Raもかなり名を馳せていたね。Art Ensemble Of Chicagoも成功していたし、いろんな音楽が生まれていたんだ。その頃、ソロでコンサートを始めるミュージシャンがたくさんいた。それまでジャズ界ではあまりないことだった。バークレーにMapenziという小さなクラブがあって、ソロとデュエットを専門にしていた。例えばRoscoe Mitchellなんかがソロ・ショーをやったり、Joseph Jarmanもソロをやってたし、Roland Youngも、それから私もRoland Youngとデュエットした。実験的な時期だったと言えるね。

1977年のBerkeley Jazz Festivalがバンドの最後の演奏だ。私たちは成長の痛みを味わっていた。それに私たちはまだ25歳くらいと若かった。結婚もして、娘も生まれた。でも私がMargauxと別れたとき、他のメンバーはみんなそれぞれの方向に進みたがった。というわけで、それが最後のショーになった。私はサンフランシスコに住み続け、Margauxはカリフォルニア大学サンディエゴで音楽の修士になった。私は新規開拓でトラディショナル・ジャズも演奏するようになったんだ。そして1977年に、今でも続く財団法人であるCultural Odysseyを発足した。

ーどのようにしてThe Pyramidsは再結成の運びになったのでしょうか?

私はその頃もう自分のCDをプロュースしていた。1998年のPortraits、2000年のCenturion、2004年にはHomage To Cuba。その2004年頃、どうもインターネットが騒がしくなってきたんだ。The Pyramidsの音楽について聞いてくる人がけっこういて。それで2007年に再結成コンサートをやることにした。2010年にはリ再結成ツアーでヨーロッパに行って、2011には再開後初のアルバムを、Faust Studiosで録音したんだ。

ーThe Pyramidsを再始動するにあたって、どういうことをするかについて意識的に計画を立てたのでしょうか、それとも自然の流れにまかせる形でしたか?

最初のツアーは、70年代に作った曲を演奏するのと、新しく作った曲をレパートリーに加えるという組み合わせだった。録音したアルバムはだいたい新しい曲だった。どれも初めてレコーディングされたものだったし、前3作のアルバムには登場しないものだ。だからだいたい新しい音楽だったね。前と違った点はたくさんある。時に、しっかり練った計画も道を外れるものなんだ。
MargauxとDonaldがツアーに参加しないと決めたのはひとつの節目だった。ビジネス的な判断と、ヨーロッパをツアーするにあたっての資金をどうするかという具体的な課題が主な背景だったと思う。あと私たちも年をとって、健康上の問題もあった。だからアルバムOtherworldlyはクインテットとして録音された。私と、Kimathi Asante、Kenneth Nash、Bradie Spellers、それから新たにベースとして参加したKash Killionだ。NashはSun Raとの共演経験が豊富で、あの予測不能な異世界感を持ち込んでくれた。The Pyramidsはこの新しい形態で、オリジナルでやってた期間よりもう長く続けている。バンドとしての再編成は何度も経ている。そうして色んな参加メンバーが持ち込んだ全く新しい音楽スタイルを、バンドが吸収してきているのは素晴らしいよ。

ー以前に、We Be All AfricansはFela Kutiから部分的に影響を受けているとお話しされていたと思います。でもそれは音楽的にではなく、メッセージという点で、と。少し詳しく説明してもらえますか?

これは私にとって最も現在を生きている形の音楽だと思う。私たちは常に、社会に対して意識的なバンドだった。ソーシャル・アクティビズムとしてのアート、と私はそれを呼ぶんだけど。Felaもそうだし、Bob Marleyの音楽でもそうだけど、彼らは自分が生きている社会の形を黙って受け入れるということを拒否するミュージシャン達だった。ミズーリ州ファーガソンで警官がマイケル・ブラウンを射殺したことに端を発する抗議の動き、それに連なる警官による黒人青年殺し事件の数々、難民と移民問題の危機的状況、その一方には、統一ヨーロッパやトランプ関連の、壁を建てようとする人々。でも本当のところ、我々はみんな人間なんだ。文化人類学者や考古学者は、人類はアフリカで始まったと言う。だからWe Be All Africansは、我々はみな人類というひとつの家族で、ひとりの祖先を共有するんだということ意味している。ひとりの、人間の、祖先だ。黒人の祖先でも、白人の祖先でもなく。じゃあなんで警官は若い黒人ばかり撃ち、我々はアフリカとシリアからの難民を受け入れようとしないのか? もっともっと、お互いを思いやる必要がある。

ーライブはどんな感じになるのでしょう?

このツアーは、出来立てのWe Be All Africansの延長と見ている。同時に次のアルバムに備えて作っている全く新しい曲もある。Bradie Spellerが参加するし、バイオリンのSandy Pointdexterも、それから3人の新しいメンバーもいる。BBCのLate Junctionという素晴らしいライブ番組に出演したときと同じ編成だ。

ー演劇やダンスの要素は計画していますか?

私がタップダンスをするのは間違いないね。アメリカの黒人タップダンスで、その他のタップとはかなり違うスタイルだよ。それはとにかくいつもの私たちの、儀式的で祭事的なパフォーマンスをやるよ。The Pyramidsの伝統になっているものだね。

ーThe Pyramidsやその他スピリチュアル・ジャズのバンドを受けた世代の新しいミュージシャンが数多く活躍し始めています。このような形での音楽的進展を嬉しく思いますか?



わくわくするよ。とても嬉しい。The Pyramidsがその一端を担っていると感じるからなおさらね。その仲間でいられるのは素晴らしい。Floating Pointsというミュージシャンと一緒に西海岸ツアーをしたんだけど、彼はたぶんThe Pyramidsが結成されたときには生まれてもいなかったと思う。彼が私の音楽を認めてくれるのは光栄だし、逆にこちらも彼の音楽を認めることができる、というのは本当に気持ちの良いことだよ。Kamasi WashingtonやFlying Lotusなどのスピリチュアル・ジャズの新しい動きをはじめとした現在のシーン、その一部でいられるということ、それは本当に、昔のように音楽は人種によって区別されていないし、細かいジャンルに閉じ込められてもいないということだろう。私たちは相違点よりも共通点が多いんだ。


↑インタビュー中に出てくる、エチオピアの12世紀に石を切り抜いて作った協会

翻訳:山平宙音


Thursday, September 29, 2016

Not by trade -Loud Boyz "FYK"

そらねは何して遊んでるのかシリーズその1:音楽ビデオ出演(サブリミナル的)

みなさん、冷たい牛乳を頭から浴びたことがあるでしょうか? 私はあります。このビデオの1:48あたりのその雄姿がおさめられていますので、ご覧下さい。

Loud Boyzという地元のバンドです。


みなさんそれから、ビキニを着て手作りの血のりを頭から浴びたことがあるでしょうか? 私はあります。1:09あたり。血のりにはチョコレート、コーンスターチ、メープル風シロップなどが入っております。


軽い気持ちで引き受けたものの、冷たい牛乳を頭から浴びるというのは思いの外、辛いものでした。モデルさんたち、血のりはいいけど頭と顔はNG、牛乳は無理、って感じだったんで私、裏方ボランティアとして手を挙げてみました。あとで振り返って笑えそうなことはだいたいしてみます。牛乳はすごく冷たいし呼吸できないし寒気と笑いと気持ち悪さで牛乳吹き出したらカメラに飛ぶし。いい雰囲気を醸しているでしょう。さらに、この後出かけてからコンタクトレンズが片方だけ血のりで染まってしまっているのに気付き、そのせいで後で変な軽い頭痛と車酔いみたいな状態になり、早々帰宅し、コンタクトレンズは捨てました。しかもシャワー浴びたのに寝る時まで自分から牛乳の匂いがするのです。乳臭いわたし。走馬灯にもう一つ小さなワラえる思い出が加わりました。(撮影日は2015年5月9日)
ちなみにこのビデオは、バンドがキックスターターか何かでお金を集めて撮影編集費用にあてたようです。



Thursday, December 3, 2015

A tasty healthy meal in a rice cooker

Recipe for my friend Shannon and all other friends like Shannon. This is a easy to make, tasty, satisfying, nutritious dish. Find good looking salmon or use frozen salmon.
---One rice cooker grain, fish and greens---

Time for prep and cook: approximately 30 mins
Tool you need: a rice cooker

Ingredients:
1 cup grain/bean (White rice, quinoa, split lentils mix)
1.3 cup water (Preferably spring or filtered)
1 piece konbu (1 credit card size)
3 dry shiitake mushroom stems (chopped)
1/2 table spoon dry garlic
1 table spoon Shio-koji

1 piece salmon (Half to 1 lb)

2 cup kale (chopped)

Lemon squeeze (optional and recommended)
Sesame seeds (optional and recommended)


How to make it:
1. Sprinkle salt on salmon on both sides. Use about 1teaspoon total. Let it sit while you prepare other stuff. If frozen, cut into bite size pieces, add the salt in the rice cooker instead of sprinkling on the fish.
No dripping liquid, even color is good sign














2. Make your grain/bean blend. ( Try one part each of white rice, quinoa and split lentils (orange ones). Wash them changing water 3 times. Drain.
Strainers are useful











3. Chop kale.
As much as you like











4. In rice cooker, add grain mix, 1.3 cup water, knob, shiitake, garlic and shio-koji. Wrap salmon in paper towel to remove any liquid. Rest salmon on grains. Put the lid on and start the rice cooker.
You can use scissors
to cut mushroom stems















5. When the rice cooker stops cooking, add kale on top and put the lid back. Wait 5-10 mins. If you don't know when the rice cooker stops cooking, set a timer when you start cooking for 15 mins and add kale when it's up.













6. Serve with lemon squeeze. Other optional recommendations; thinly julienne fresh ginger, toasted sesame seeds / hemp seeds.
Softer greens like spinach and
mustard green can 
skip the
cooker and be served like 

side salad / bed for rice too 
















---Enjoy---

Tuesday, May 13, 2014

フー・ファイターズ@9:30 club (2014/5/5)と音響

(上の写真はワシントンポストのレポート記事から拝借)

先週5/5月曜日の夜に、DCの老舗ライブハウス9:30クラブFoo Fightersのシークレット・ショーを見た。シークレットとはいえフライヤーにはスペシャルゲストと書いた横にFoo Fightersのアルバムジャケットと同じ絵があったりとヒントは散りばめられていた。私は内容を知らずに友達に誘われ行ってみたのだったが、結局これはロック界きってのナイスガイ、デイブ・グロールによる地元への恩返しの夜だった。泣けた。

そもそも、35年もの歴史を誇るワシントンDCのファンク・バンドTrouble Funkのフロントマンであるビッグ・トニー氏の誕生日パーティをデイブ・グロールが開くという趣旨で、決定している出演バンドはそのTrouble FunkとThe Don't Need It's、そして謎のスペシャルゲストの3組という毛色の変わったイベントだった。34年もの歴史を誇り当初はレーベルSugar Hill Recordからアルバムを出していたTrouble FunkはGo-goといういわばDCならではの音楽ジャンルで、ファンク、ブルース、ヒップホップが混ざって80年代的なサンプリングと観客への呼びかけが盛り上がるストリート・ノリ、14人編成の大所帯。The Don't Need It'sはデイブ・グロール(ドラム)、Pete Stahl(ボーカル。デイブがニルバーナ以前にDCでやってたバンドScreamの仲間)、そしてDCの元祖ハードコア・パンク・バンドBad BrainsのDr. KnowとDarryl Jeniferがそれぞれギターとベースで参加するおそらく単発の企画バンド。

1枚37ドルのチケットはひとり2枚まで、会場である9:30クラブの窓口のみ、いまどきオンライン販売なし、購入時に提示したIDを持参しないと入場できないという異例。つまりDC地元に住んでてかつ、今まで出てきた名前にピンと来てすぐ動いた人しか行けないイベントだった。何しろFoo Fightersは2万人規模のアリーナでツアーをするバンド、出演の噂がたっただけでキャパ1100人のこの箱はオンライン販売ですぐ売り切れてただろう。

とはいえ観客の中には色んな人がいたと思うのだが、思いのほかFooファンは少なかったようで、2、3曲終わってからかな、ステージでMCするデイブ、「この中にFoo Fighters見たことあるひとー?」って。手をあげる人ちらほら、5%くらいかな。そしたらデイブ「まじかよ、おまえら。14年もやってるってのによ」って会場大ウケ。DCのパンク好きは多分Foo Fighters聞かないし、Go-goファンもそう。シーン情勢の話しとか、ファンクとパンクとか、いろいろ面白いイベントだったわけなんだけど、DCという街の音楽シーンを斜めにつなげるのがロック界きってのナイスガイ、デイブ・グロールの腕力だったのね、という。映像作家として自身のドキュメンタリーでデイブ・グロールのインタビューもしたRobin BellはDC郊外のバージニア州生まれ、Murder Capital*と呼ばれたほどの治安の悪かったワシントンDCで育った。この日は近所に住む弟と来ていた。耳に心地よくないのでパンク音楽は苦手であると言う私に、パンク音楽を「folk music(土着の民謡)だからねぇ、痛みは避けられない」という。

と、ここまで長い前置きで、言いたかったのは音響のこと。音響のことを話すのは専門知識もないし難しいし、音なんて浴びないと分からない、っていうこともあるんだけど。しかし。あーパンクが分かった!って思っちゃったのね。今まで苦手だと思っていたハードなパンクが。8時に会場着いたときに、デイブ、汗だくでドラムたたいてた。オープナーのThe Don't Need It'sのドラマーとして。すごく力強くタイトなドラムだった。なんというか、抱かれたいというか。木から降りられなくなったときに抱っこして下ろして欲しいというか。でも音響的にはしばらく聞いてると音の角が耳に刺さるというか、耳栓をすれば全体が曇るし、外せば耳が痛いし、という状態。ステージで濡れた髪を振り乱して全力のデイブとその仲間達には悪いのだが、うるさい音楽は分からん、と思っていたら終了。休憩をおきTrouble Funkが登場した。楽しくノリノリなのだが、これもまたホーンが耳に刺さる。しばしバーで休憩する。

そして、次のバンドのサウンド・チェックが始まる。ステージ脇に合わせて10個はギターが並んでいる。なんだろう、ギターの弦を1本はじくと、色んなケーブルと機械を通して拡大されて、スピーカーから出てくる、その音が澄んでいる。響き渡った瞬間、雲が晴れたような気持ちよさが広がる。だいたいの人はおしゃべりしたりiPhoneいじったりして音に注意を向けてはいないんだけど、支配する空気は違っている。期待が高まる。そしてギターをかついだデイブが登場、耳に覚えのあるリフを小さく鳴らしながら話し始める。ワシントンDC郊外バージニア州スプリングフィールドで育ったこと、ニルバーナ加入よりずっと前のバンドでTrouble Funkの前座をつとめたこと、9:30クラブでたくさんのショーを見て来たこと。観客喝采。そのまま弾き語りの1曲目はTimes like this、後半からドラムとベースが入り、ぎゅっと音圧が高まる。気持ちいい。思い切り大きい音なのに、不快に感じる箇所が全くなく、立体的で深い。それからずっとデイブはギターとボーカル。

こんな気持ちの良い音響で思い出すのは、2012年2月ニューヨークのクイーンズにある科学博物館BjorkがやったBiophiliaツアーのショー。Great Hallという、平面部分が全くない波打つコンクリートのフレームに5000枚のガラスがはめ込まれた張り30メートル超の青いに囲まれたステージだった。キャパは300人程度、かなり自由に歩き回れて、疲れたら座れて、一番ステージから遠くにいても10メートルくらい。レジデンシーとしての5回の公演は発売と同時に即売り切れ。特別なショーだった。それはそれは、すごい音だった。たぶん、普通のコンサートの音響と考え方が違う。そのホール固有の環境に合わせて、科学実験のように基礎から構築したんだと思う。はるか上にある天井が開いて光とともに宇宙船に吸い込まれそうな気がした。底抜けの恐ろしさみたいなものが感じられる解像度だった。これは絶対に、ビデオじゃ伝わらない。少なくともiPhoneで撮ってyoutubeに上げたものでは無理。削ぎ落とされるビットに宿る800万の神が合唱していた、bjorkの方を向いて。

さて9:30クラブは大盛り上がり。中盤のMonkey Wrenchではデイブがステージ横にあるバーに立ってギターを演奏していた。そして気持ち良く安心して包み込まれるような音の中ではなんと私も、ハードなロックも消化できるのであった。屈強な野郎どもが全員が全力ででかい音を出している、汗だくで太鼓をたたく、シャウトする、完璧なタイミングでメリハリを描き、観客と一体となる。文句なしに、体が、気持ちよかった。渦巻くエネルギーが、ぎりぎりのところで緻密にコントロールされていた。後半、This is a callでは気づけば歌いながら周りの皆さんと拳を上げていた私。子供のようにはしゃいでいた。安心して身を任せられる音響の中で。アンコール4曲を含む19曲のセットが終わったのは12時半過ぎ。帰ってきたヒーローの正しくフレンドリーなパンク・ショーだった。

BjorkとFoo Fightersのoutstandingな音響に共通するのは、どちらも普段、最大規模のフェスティバルでヘッドライナーをつとめるような大物で、小さな箱でやるのは珍しいということ。この翌日、ミュージシャンとして数多くのバンドツアーに参加してきた我がルームメイトのJerry BusherにFoo FightersのPAの良さを話していたら、「そりゃ普段スタジアム満杯の客を満足させてるバンドだから、小さくて音質の良い9:30クラブのような箱での調整なら理想に近い音が出せるだろう」とのことだった。たぶんミュージシャンにとっても、全ての観客がいい音で、息づかいの聞こえる解像度で演奏できるということは得るものが大きいのであろう。

私はショーに行く時、会場でも結構選ぶところがある。そして同じ箱でもミュージシャンや、PA設備と技術者によって音はかなり変わる。ひとつ言えるのは、ミュージシャンが普段やる会場の規模よりかなり小さいところでやるショーは、音質が良いことが期待できる場合が多いということ。そして音響が違えば、音楽ジャンルそのものの印象も大きく変わるということ。The medium is the message。Foo Fightersのコンサートにまた行くかと言われると微妙なのだが、彼らはハードなパンクの、健全でタフな精神は健全でタフな身体に宿ってステージで爆発する、その美しさを教えてくれた。私が住むこの若くワイルドな街の民謡が初めてちょっと理解できた。とても良いパーティだった。

*最近はデトロイトなど過疎化した工業都市にトップの座を譲ってはいるけど2000年頃には殺人、窃盗など人口あたりの発生数が全米1位だったようです。最近でもまだまだほとんどの犯罪で発生率が日本よりかなーり高い。日本大使館が作ったグラフが分かりやすい。アメリカ合衆国の犯罪と治安(wiki)はもっと詳しい。

おまけの映像集

ところで今回ロッキンオンの関連記事を読んだんですが、最新号、私の見間違いか誤植だろうと思いました。2014年じゃなくてこれ1996年の表紙だよね? オアシスとニルバーナって。90年代ロック専門誌っていうニッチなポジションが確立されたんですねロッキンオンは。参考になる。96年頃は実は私も熱心にこの雑誌読んでましたし、実はFoo fightersのファーストアルバムはけっこうよく聴いてました。This is a call最初のシングルはイントロのコーラスが素敵です。怒りと絶望を乗り越えた先の突き抜けたポップ。