Thursday, November 2, 2017

Idris Ackamoor(The Pyramids)インタビュー



8月にアムステルダムで開催されるDekmantel Festivalへの出演に先がけ、The PyramidsのIdris Ackamoorがインタビューに応じてくれた。Cecil Taylorのもとで学んだ体験について、またThe Pyramidsの歴史と、後の世代に与えた影響について語ってもらった。

Idris AckamoorとThe Pyramidsの物語は、ディープなジャズの伝説そのものだ。アヴァン・ジャズの天才Cecil Taylorの教え子によって結成されたThe Pyramidsはジャズ・バンドとして広くアフリカを旅した最初の世代で、ダゴンバ族のドラム・サークルに参加したり、ケニヤでマサイ族と暮らしたり、ラリベラの岩窟教会群を訪ねてまわったりした。ファンキーで変幻自在なアフロ・ジャズと祭り(踊り・儀式)の要素を組み合わせるという現在のスタイルは、その頃の経験に影響されている。アメリカに戻った彼らはThe Pyramidsとして3枚の自主制作版を発表し、繁栄の盛りだったサンフランシスコの音楽シーンのフィクスチャーとなる。そして1977に解散。

数年後には彼らのアルバムはコレクターの間で話題になっており、インターネットの普及にともない、その伝説はさらに広く知られるようになった。新たなファンが増えたことで再発版が作られ、さらには、バンド自体も再始動することになる。過去10年にわたりAckamoorは、数多くの編成でThe Pyramidのツアーや録音をし、新旧のメンバーと共演してきた。復帰作となったアルバムOtherwordlyは2012年に発表され、続いて2016年には活気ほとばしる新作We Be All Africansが、ハズレ無しの安定レーベルStrut Recordからリリースされた。

本名をBruce BakerというAckamoorは1951年に生まれ、シカゴのサウス・サイドで育つ。幼くして音楽のとりこになりサックス、クラリネット、ピアノ、バイオリン、トランペットのレッスンを受けるが、高校ではスポーツに熱中した。「野球が大好きだったんだ」と、Skypeを通じ彼は言った。「でも学校のバンドと野球を両方やるわけにはいかなかった。そのバンドが野球の試合で演奏していたから。だから4年間は野球に専念にして、あとは普通のティーンがするように、パーティしたり、女の子を追いかけたり、勉強したりしてた。」

野球の奨学生として大学に行くが、最初の学期中にある日突然、自分の天職は音楽だと思い悟る。それから彼はオハイオ州イエロースプリングスにある、勤労学生向けの実験的な修学コースと黒人専用の学生寮で知られた教養大学Antioch大学に編入する。その間Ackamoorは、サックスのグルとして知られたClifford Kingからレッスンを受ける。Kingは1930年代にはビッグバンドで演奏しており、シカゴのサックス奏者の多くから先生として慕われていた。


音楽・演劇カンパニーであるCultural Odysseyとしてツアーでテネシー州ノックスヴィルを訪れていたAckamoorはSkypeを通じて我々の質問に答えてくれた。話題は、フリー・ジャズのピアニストであり詩人のCecil Taylorの元で学んだこと、The Pyramidsの結成と復活、現在の編成でのライブ・ショーが観客にとってどんな体験になるのか、などに及んだ。

ーAntioch大学時代にCecil Taylorに学んだわけですが、最も重要な教えはなんだったと思いますか。

Idris Ackamoor: 私は音楽専攻で、自分のバンドを始めた頃だった。それから1年半後くらいに、Cecilと出会った。彼は25人から30人のメンバーから成るnterstellar Black Music Ensembleというグループを指導していて、そこに私も所属していた。メンバーの多くは学生で、彼が以前に教えていた大学からついてきた生徒もいた。私はアルト・セクションの一員で、他にはJameel MoondocやBobby Zenkelなどがいた。Bobbyはフィラデルフィア出身の素晴らしいサックス奏者だ。それからもちろん、The PyramidsのオリジナルメンバーMargaux Simmonsがフルート担当だった。The PyramidsのベーシストKimathi Asanteはそこでベース担当。つまり我々は当時みんなCecilの生徒で、そこは信じられないような学びの場だったんだ。

Cecilのオーディション風景は忘れられない。重要なのは音楽ではなかった。共感の訓練のようなものだったんだ。私たちが音楽家としてどれほど優秀かということは彼はさほど気にしてなくて、彼が探っていたのは、自分が出す指示を私たちがちゃんと受け止めることができるか、ということだった。あと、Cecilに関して驚いたのは、課題音楽を生徒に与える時に、彼が楽譜も音符も使わなかったこと。彼は例えば「じゃあ次はC、GそれからBフラット」というように言って、我々にコードネームだけ書きとらせたんだ。音符じゃなくてね。

ーご自身の音楽制作でもその方式を採用しましたか?

そうだね、そうやったことはあるよ。でも自分が作曲するときは楽譜を使う。Cecilからの影響は、紙に書かれたこと以上に広がりのあるものなんだ。それはもっと、本質に関することであり、即興演奏とは何かということ、自然発生的に音が生まれるとはどういうことなのか、熱意とか気合いとかいうようなことなんだ。Cecilがソロで即興演奏するときの驚くべきエネルギーは、彼のトレードマークだった。演奏というのはつまり、全力で出し切るもの、という考え方だった。拍子もリズムも無い、強烈な、開かれた音楽を作り出すんだ。それはJohn ColtraneのCosmic Musicに似ていた。でもCecilの音楽はごく内向的な面もあった。すごく激しくありながら、とても美しくて詩的でもあったから。彼は音楽を通じて、限界を行き来できた。ちょうど黒人の公民権運動が盛んな時で、怒りが溢れていた時だったから、彼の音楽を怒りの音楽と勘違いした人もたくさんいた。彼の音楽は怒りの音楽ではかった。宇宙の音楽だったんだ。彼は西洋音楽の教育を受けていたけど、アメリカという地に影響を受けたアフリカ系アメリカ人であり、結果として彼の考える即興音楽というのは、音楽に憑依されるという考え方と強く関係していた。アフリカや、ハイチのディアスポラの儀式的音楽にも、憑依という概念や取り憑かれる感覚を作り出すという面がある。それがCecilのやろうとしていたことだ。彼の演奏する姿はまるで、取り憑かれているかのようだったよ。でも同時に彼は、完全なるコントロール下にあったんだ。

ーThe Pyramidsはそのような考え方から生まれたのでしょうか?

Antioch大学には留学プログラムがあったんだ。私はMargauxと共にヨーロッパでジャズバンドを組み現地で仕事をするという内容で申し込んで、結局1年のうちヨーロッパに3ヶ月ほど滞在することになり、残りの期間はアフリカに行って、勉強しながらツアーにも出たりした。MargauxとKimaと一緒にAntioch大学を1972年の夏に発って、フランスのBesançonに辿り着いた。パリでDonald Robinsonというドラマーと会ったんだけど、パリには長居しないことにした。当時のパリはなんていうか、過密とまでは言わないけど、ジャズ・ミュージシャンがたくさんいたんだ。Frank Wright、Muhammed Ali、Dave Burrellなど。そして秋には、アムステルダムに行ってしまうことにした。そこでバンドとして活動を開始した。Margauxがフルート、Kimathiがエレクトリック・ベース、私がアルト。2、3週間後にはDonaldが加わって、Kosmosis、The Octopusなど政府後援のコンサート・ホールで演奏し始めた。当時まだあったParadisoでも演奏したね。ラジオでも演奏したし、とにかくThe Pyramidsとしてたくさんやったんだ。その頃はCecil Taylorの理論から直に影響を受けていて、私たちの音楽はかなり、アバンギャルドだった。燃えたぎる音楽、身体という限界を飛び越えさせる音楽。あるアムステルダムの詩人はそう形容したよ。

ーアフリカは最終的な目的地だったようですが、その音楽からは既に影響を受けていたのでしょうか?

アフリカの影響はまだだったね。最大の影響はCecil Taylorで、そこに自分たち独自の背景であるファンク音楽という影響も少しあった。オリジナルの音楽だったんだ。アフリカに注目していたからアフリカ的なリズムも習得していたけど、その地は未踏だった。1972年の12月にアフリカに辿り着き、ガーナに住むことになった。バンとフェリーでアフリカまで運転していけるはずってDonaldに説き伏せられたんだけど、やってみたらアムステルダムを出たところで車が故障。私はMargauxとKimathiとスペインのマラガに行って、そこから飛行機でタンジールへ、それからモロッコに数週間いて、そこからラバト、カサブランカと周り、今度は飛行機でセネガルのダカールへ行き1週間くらい滞在した。最終的にはガーナのアクラに落ち着いた。

ーアクラではクラブに通って、Hugh Masakelaなどに会っていたんですよね?

Hugh Masakelaはその頃Hedzoleh Soundzとプレイしていたな。クラブも1、2箇所行くところがあったけど、それより身の回りの音楽を何でも聴いていたね。なにしろ市場に行けばそこでバンドが演奏していたし、グリオ(伝統的語り部/吟遊詩人)も道端で演奏していて、ガーナの文化と伝統音楽をめいっぱい吸収していたんだ。Margauxと、人生が変わるような旅もした。バンでガーナ北部に行って、3週間完全に街から離れてブッシュとよばれる森林、サバンナで暮らしたんだ。アシャンティ族の首都であるクマシにも少しだけ滞在した。タマリにも行った。ダゴンバ族の住む街だよ。そこには何日かいて、王様につかえる太鼓奏者に出会って、一緒に演奏した。毎日、彼らは村の広場で演奏していて、僕らを招待してくれたんだ。大きなドラム・サークルのような感じで、15人くらいがドラムとバスドラムを叩いていた。そういう儀式的な演奏に、私たちは参加していたんだ。

タマリの後はバンをボルガタンガに走らせた。ボルガタンガはフラフラ族の街だ。面白い話なんだけど、今ちょうど、私たちがゲスト・ミュージシャンのGuy Oneを迎えて録音した45回転が発売されていて、タイトルはTinoge Ya Ta’a Ba。Guy Oneはフラフラ族の中でも最も名の知れたミュージシャンのひとりで、コロゴという二弦楽器を演奏するんだ。でも45年前、そのGuy Oneがまだ生まれてもいないころ私は彼のお父さん、おじいさんと演奏していたんだ。彼らはフラフラ族の太鼓奏者だったんだよ。

ーガーナの次はどこへ行ったのですか?

ウガンダに行って、それからケニヤに2ヶ月住んで、マサイ族とキクユ族のミュージシャンから学んだ。それからエチオピアに。そこにいる間ずっと、アフリカ音楽を録音していた。エチオピアではラリベラの音楽を録音した。ラリベラは、12世紀に当時の王が作らせたとされる、石を削って出来た建物の教会群(*1)があるところだ。それからオハイオのイエロー・スプリングスに戻って、学校を卒業した。

ーアフリカを旅行中に楽器をいろいろ集めたようですが、独自の方法でそれらを演奏していますね。本式でやることを意識的に避けているのでしょうか?

自分のやり方を探るというのが大事だったんだ。私たちは、いつかアフリカに戻ってアフリカ人になるんだ、という風には決して考えていなかったから。アフリカは私たちの祖先の地だけど、私たちの「ホーム」ではないんだ。私たちのホームは、私たちが住むアメリカだ。私たちがやろうとしているのは、アフリカ系アメリカによって作られた独自の音楽スタイルなんだ。各アルバムで使ったアフリカ楽器は今でも持っていて、ンビラという、親指で引くジンバブエのピアノを特に気に入ってよく使っているんだけど、ジンバブエの熟練奏者のやり方とはかなり違う使い方をしている。だからアフリカ楽器を演奏するときは、アフリカで使われてるやり方をコピーしようとはしてない。そういうつもりは全くないんだ。私の、オリジナルのやり方で使いたいんだ。

ーそのような体験を持ち帰って、The Pyramidsとしてレコーディングを始めるわけですね。

Lalibelaが最初のアルバムだった。私たちはミュージシャンとして、アルバムを自主プロデュースもした最初の世代だった。Cecilはその頃すでに自分のレコードをプロデュースしていた。一般的な音楽レーベルというものに幻滅していたから。同じころ私たちもアルバムをプロデュースし始めた。セルフ・プロュースのアルバムを3枚作ったんだけどLalibelaが最初で、いつも、DIYが流行る前にDIYをやってたんだよ、って言ってる。4トラック・レコーダーでLalibelaを録音して、イエロー・スプリングスの友達にマスタリングしてもらって、シンシナティに行って500枚くらい刷った。そして販売し始めた。コンサートで売り、友達に売り、家族に売り、車のトランクに詰め込んで売っていた。そうやって次の500枚を刷るだけの資金を回収して、次のアルバムKing Of Kingsを同じように作った。

それからほどなくして、そのころ私の弟が住んでいたサンフランシスコに行ってみることにした。3枚目のアルバムBirth Speed Merginはそこで録音した。新しいメンバーもバンドに参加した。ダブル・ベースのHeshima Mark Williams、コンガ奏者として活躍していたKenneth Nash、ドラムのAugusta Lee Collinsなどだ。Kimathiも二人目のベーシストとして戻ってきた。

ーサンフランシスコからはどんな影響を受けましたか?

そこで生まれていた音楽を吸収したよ。Sly & Family Stoneが成功してた。あとは色んなロックが流行っていた。それにSun Raもかなり名を馳せていたね。Art Ensemble Of Chicagoも成功していたし、いろんな音楽が生まれていたんだ。その頃、ソロでコンサートを始めるミュージシャンがたくさんいた。それまでジャズ界ではあまりないことだった。バークレーにMapenziという小さなクラブがあって、ソロとデュエットを専門にしていた。例えばRoscoe Mitchellなんかがソロ・ショーをやったり、Joseph Jarmanもソロをやってたし、Roland Youngも、それから私もRoland Youngとデュエットした。実験的な時期だったと言えるね。

1977年のBerkeley Jazz Festivalがバンドの最後の演奏だ。私たちは成長の痛みを味わっていた。それに私たちはまだ25歳くらいと若かった。結婚もして、娘も生まれた。でも私がMargauxと別れたとき、他のメンバーはみんなそれぞれの方向に進みたがった。というわけで、それが最後のショーになった。私はサンフランシスコに住み続け、Margauxはカリフォルニア大学サンディエゴで音楽の修士になった。私は新規開拓でトラディショナル・ジャズも演奏するようになったんだ。そして1977年に、今でも続く財団法人であるCultural Odysseyを発足した。

ーどのようにしてThe Pyramidsは再結成の運びになったのでしょうか?

私はその頃もう自分のCDをプロュースしていた。1998年のPortraits、2000年のCenturion、2004年にはHomage To Cuba。その2004年頃、どうもインターネットが騒がしくなってきたんだ。The Pyramidsの音楽について聞いてくる人がけっこういて。それで2007年に再結成コンサートをやることにした。2010年にはリ再結成ツアーでヨーロッパに行って、2011には再開後初のアルバムを、Faust Studiosで録音したんだ。

ーThe Pyramidsを再始動するにあたって、どういうことをするかについて意識的に計画を立てたのでしょうか、それとも自然の流れにまかせる形でしたか?

最初のツアーは、70年代に作った曲を演奏するのと、新しく作った曲をレパートリーに加えるという組み合わせだった。録音したアルバムはだいたい新しい曲だった。どれも初めてレコーディングされたものだったし、前3作のアルバムには登場しないものだ。だからだいたい新しい音楽だったね。前と違った点はたくさんある。時に、しっかり練った計画も道を外れるものなんだ。
MargauxとDonaldがツアーに参加しないと決めたのはひとつの節目だった。ビジネス的な判断と、ヨーロッパをツアーするにあたっての資金をどうするかという具体的な課題が主な背景だったと思う。あと私たちも年をとって、健康上の問題もあった。だからアルバムOtherworldlyはクインテットとして録音された。私と、Kimathi Asante、Kenneth Nash、Bradie Spellers、それから新たにベースとして参加したKash Killionだ。NashはSun Raとの共演経験が豊富で、あの予測不能な異世界感を持ち込んでくれた。The Pyramidsはこの新しい形態で、オリジナルでやってた期間よりもう長く続けている。バンドとしての再編成は何度も経ている。そうして色んな参加メンバーが持ち込んだ全く新しい音楽スタイルを、バンドが吸収してきているのは素晴らしいよ。

ー以前に、We Be All AfricansはFela Kutiから部分的に影響を受けているとお話しされていたと思います。でもそれは音楽的にではなく、メッセージという点で、と。少し詳しく説明してもらえますか?

これは私にとって最も現在を生きている形の音楽だと思う。私たちは常に、社会に対して意識的なバンドだった。ソーシャル・アクティビズムとしてのアート、と私はそれを呼ぶんだけど。Felaもそうだし、Bob Marleyの音楽でもそうだけど、彼らは自分が生きている社会の形を黙って受け入れるということを拒否するミュージシャン達だった。ミズーリ州ファーガソンで警官がマイケル・ブラウンを射殺したことに端を発する抗議の動き、それに連なる警官による黒人青年殺し事件の数々、難民と移民問題の危機的状況、その一方には、統一ヨーロッパやトランプ関連の、壁を建てようとする人々。でも本当のところ、我々はみんな人間なんだ。文化人類学者や考古学者は、人類はアフリカで始まったと言う。だからWe Be All Africansは、我々はみな人類というひとつの家族で、ひとりの祖先を共有するんだということ意味している。ひとりの、人間の、祖先だ。黒人の祖先でも、白人の祖先でもなく。じゃあなんで警官は若い黒人ばかり撃ち、我々はアフリカとシリアからの難民を受け入れようとしないのか? もっともっと、お互いを思いやる必要がある。

ーライブはどんな感じになるのでしょう?

このツアーは、出来立てのWe Be All Africansの延長と見ている。同時に次のアルバムに備えて作っている全く新しい曲もある。Bradie Spellerが参加するし、バイオリンのSandy Pointdexterも、それから3人の新しいメンバーもいる。BBCのLate Junctionという素晴らしいライブ番組に出演したときと同じ編成だ。

ー演劇やダンスの要素は計画していますか?

私がタップダンスをするのは間違いないね。アメリカの黒人タップダンスで、その他のタップとはかなり違うスタイルだよ。それはとにかくいつもの私たちの、儀式的で祭事的なパフォーマンスをやるよ。The Pyramidsの伝統になっているものだね。

ーThe Pyramidsやその他スピリチュアル・ジャズのバンドを受けた世代の新しいミュージシャンが数多く活躍し始めています。このような形での音楽的進展を嬉しく思いますか?



わくわくするよ。とても嬉しい。The Pyramidsがその一端を担っていると感じるからなおさらね。その仲間でいられるのは素晴らしい。Floating Pointsというミュージシャンと一緒に西海岸ツアーをしたんだけど、彼はたぶんThe Pyramidsが結成されたときには生まれてもいなかったと思う。彼が私の音楽を認めてくれるのは光栄だし、逆にこちらも彼の音楽を認めることができる、というのは本当に気持ちの良いことだよ。Kamasi WashingtonやFlying Lotusなどのスピリチュアル・ジャズの新しい動きをはじめとした現在のシーン、その一部でいられるということ、それは本当に、昔のように音楽は人種によって区別されていないし、細かいジャンルに閉じ込められてもいないということだろう。私たちは相違点よりも共通点が多いんだ。


↑インタビュー中に出てくる、エチオピアの12世紀に石を切り抜いて作った協会

翻訳:山平宙音


Thursday, September 29, 2016

Not by trade -Loud Boyz "FYK"

そらねは何して遊んでるのかシリーズその1:音楽ビデオ出演(サブリミナル的)

みなさん、冷たい牛乳を頭から浴びたことがあるでしょうか? 私はあります。このビデオの1:48あたりのその雄姿がおさめられていますので、ご覧下さい。

Loud Boyzという地元のバンドです。


みなさんそれから、ビキニを着て手作りの血のりを頭から浴びたことがあるでしょうか? 私はあります。1:09あたり。血のりにはチョコレート、コーンスターチ、メープル風シロップなどが入っております。


軽い気持ちで引き受けたものの、冷たい牛乳を頭から浴びるというのは思いの外、辛いものでした。モデルさんたち、血のりはいいけど頭と顔はNG、牛乳は無理、って感じだったんで私、裏方ボランティアとして手を挙げてみました。あとで振り返って笑えそうなことはだいたいしてみます。牛乳はすごく冷たいし呼吸できないし寒気と笑いと気持ち悪さで牛乳吹き出したらカメラに飛ぶし。いい雰囲気を醸しているでしょう。さらに、この後出かけてからコンタクトレンズが片方だけ血のりで染まってしまっているのに気付き、そのせいで後で変な軽い頭痛と車酔いみたいな状態になり、早々帰宅し、コンタクトレンズは捨てました。しかもシャワー浴びたのに寝る時まで自分から牛乳の匂いがするのです。乳臭いわたし。走馬灯にもう一つ小さなワラえる思い出が加わりました。(撮影日は2015年5月9日)
ちなみにこのビデオは、バンドがキックスターターか何かでお金を集めて撮影編集費用にあてたようです。



Thursday, December 3, 2015

A tasty healthy meal in a rice cooker

Recipe for my friend Shannon and all other friends like Shannon. This is a easy to make, tasty, satisfying, nutritious dish. Find good looking salmon or use frozen salmon.
---One rice cooker grain, fish and greens---

Time for prep and cook: approximately 30 mins
Tool you need: a rice cooker

Ingredients:
1 cup grain/bean (White rice, quinoa, split lentils mix)
1.3 cup water (Preferably spring or filtered)
1 piece konbu (1 credit card size)
3 dry shiitake mushroom stems (chopped)
1/2 table spoon dry garlic
1 table spoon Shio-koji

1 piece salmon (Half to 1 lb)

2 cup kale (chopped)

Lemon squeeze (optional and recommended)
Sesame seeds (optional and recommended)


How to make it:
1. Sprinkle salt on salmon on both sides. Use about 1teaspoon total. Let it sit while you prepare other stuff. If frozen, cut into bite size pieces, add the salt in the rice cooker instead of sprinkling on the fish.
No dripping liquid, even color is good sign














2. Make your grain/bean blend. ( Try one part each of white rice, quinoa and split lentils (orange ones). Wash them changing water 3 times. Drain.
Strainers are useful











3. Chop kale.
As much as you like











4. In rice cooker, add grain mix, 1.3 cup water, knob, shiitake, garlic and shio-koji. Wrap salmon in paper towel to remove any liquid. Rest salmon on grains. Put the lid on and start the rice cooker.
You can use scissors
to cut mushroom stems















5. When the rice cooker stops cooking, add kale on top and put the lid back. Wait 5-10 mins. If you don't know when the rice cooker stops cooking, set a timer when you start cooking for 15 mins and add kale when it's up.













6. Serve with lemon squeeze. Other optional recommendations; thinly julienne fresh ginger, toasted sesame seeds / hemp seeds.
Softer greens like spinach and
mustard green can 
skip the
cooker and be served like 

side salad / bed for rice too 
















---Enjoy---

Tuesday, May 13, 2014

フー・ファイターズ@9:30 club (2014/5/5)と音響

(上の写真はワシントンポストのレポート記事から拝借)

先週5/5月曜日の夜に、DCの老舗ライブハウス9:30クラブFoo Fightersのシークレット・ショーを見た。シークレットとはいえフライヤーにはスペシャルゲストと書いた横にFoo Fightersのアルバムジャケットと同じ絵があったりとヒントは散りばめられていた。私は内容を知らずに友達に誘われ行ってみたのだったが、結局これはロック界きってのナイスガイ、デイブ・グロールによる地元への恩返しの夜だった。泣けた。

そもそも、35年もの歴史を誇るワシントンDCのファンク・バンドTrouble Funkのフロントマンであるビッグ・トニー氏の誕生日パーティをデイブ・グロールが開くという趣旨で、決定している出演バンドはそのTrouble FunkとThe Don't Need It's、そして謎のスペシャルゲストの3組という毛色の変わったイベントだった。34年もの歴史を誇り当初はレーベルSugar Hill Recordからアルバムを出していたTrouble FunkはGo-goといういわばDCならではの音楽ジャンルで、ファンク、ブルース、ヒップホップが混ざって80年代的なサンプリングと観客への呼びかけが盛り上がるストリート・ノリ、14人編成の大所帯。The Don't Need It'sはデイブ・グロール(ドラム)、Pete Stahl(ボーカル。デイブがニルバーナ以前にDCでやってたバンドScreamの仲間)、そしてDCの元祖ハードコア・パンク・バンドBad BrainsのDr. KnowとDarryl Jeniferがそれぞれギターとベースで参加するおそらく単発の企画バンド。

1枚37ドルのチケットはひとり2枚まで、会場である9:30クラブの窓口のみ、いまどきオンライン販売なし、購入時に提示したIDを持参しないと入場できないという異例。つまりDC地元に住んでてかつ、今まで出てきた名前にピンと来てすぐ動いた人しか行けないイベントだった。何しろFoo Fightersは2万人規模のアリーナでツアーをするバンド、出演の噂がたっただけでキャパ1100人のこの箱はオンライン販売ですぐ売り切れてただろう。

とはいえ観客の中には色んな人がいたと思うのだが、思いのほかFooファンは少なかったようで、2、3曲終わってからかな、ステージでMCするデイブ、「この中にFoo Fighters見たことあるひとー?」って。手をあげる人ちらほら、5%くらいかな。そしたらデイブ「まじかよ、おまえら。14年もやってるってのによ」って会場大ウケ。DCのパンク好きは多分Foo Fighters聞かないし、Go-goファンもそう。シーン情勢の話しとか、ファンクとパンクとか、いろいろ面白いイベントだったわけなんだけど、DCという街の音楽シーンを斜めにつなげるのがロック界きってのナイスガイ、デイブ・グロールの腕力だったのね、という。映像作家として自身のドキュメンタリーでデイブ・グロールのインタビューもしたRobin BellはDC郊外のバージニア州生まれ、Murder Capital*と呼ばれたほどの治安の悪かったワシントンDCで育った。この日は近所に住む弟と来ていた。耳に心地よくないのでパンク音楽は苦手であると言う私に、パンク音楽を「folk music(土着の民謡)だからねぇ、痛みは避けられない」という。

と、ここまで長い前置きで、言いたかったのは音響のこと。音響のことを話すのは専門知識もないし難しいし、音なんて浴びないと分からない、っていうこともあるんだけど。しかし。あーパンクが分かった!って思っちゃったのね。今まで苦手だと思っていたハードなパンクが。8時に会場着いたときに、デイブ、汗だくでドラムたたいてた。オープナーのThe Don't Need It'sのドラマーとして。すごく力強くタイトなドラムだった。なんというか、抱かれたいというか。木から降りられなくなったときに抱っこして下ろして欲しいというか。でも音響的にはしばらく聞いてると音の角が耳に刺さるというか、耳栓をすれば全体が曇るし、外せば耳が痛いし、という状態。ステージで濡れた髪を振り乱して全力のデイブとその仲間達には悪いのだが、うるさい音楽は分からん、と思っていたら終了。休憩をおきTrouble Funkが登場した。楽しくノリノリなのだが、これもまたホーンが耳に刺さる。しばしバーで休憩する。

そして、次のバンドのサウンド・チェックが始まる。ステージ脇に合わせて10個はギターが並んでいる。なんだろう、ギターの弦を1本はじくと、色んなケーブルと機械を通して拡大されて、スピーカーから出てくる、その音が澄んでいる。響き渡った瞬間、雲が晴れたような気持ちよさが広がる。だいたいの人はおしゃべりしたりiPhoneいじったりして音に注意を向けてはいないんだけど、支配する空気は違っている。期待が高まる。そしてギターをかついだデイブが登場、耳に覚えのあるリフを小さく鳴らしながら話し始める。ワシントンDC郊外バージニア州スプリングフィールドで育ったこと、ニルバーナ加入よりずっと前のバンドでTrouble Funkの前座をつとめたこと、9:30クラブでたくさんのショーを見て来たこと。観客喝采。そのまま弾き語りの1曲目はTimes like this、後半からドラムとベースが入り、ぎゅっと音圧が高まる。気持ちいい。思い切り大きい音なのに、不快に感じる箇所が全くなく、立体的で深い。それからずっとデイブはギターとボーカル。

こんな気持ちの良い音響で思い出すのは、2012年2月ニューヨークのクイーンズにある科学博物館BjorkがやったBiophiliaツアーのショー。Great Hallという、平面部分が全くない波打つコンクリートのフレームに5000枚のガラスがはめ込まれた張り30メートル超の青いに囲まれたステージだった。キャパは300人程度、かなり自由に歩き回れて、疲れたら座れて、一番ステージから遠くにいても10メートルくらい。レジデンシーとしての5回の公演は発売と同時に即売り切れ。特別なショーだった。それはそれは、すごい音だった。たぶん、普通のコンサートの音響と考え方が違う。そのホール固有の環境に合わせて、科学実験のように基礎から構築したんだと思う。はるか上にある天井が開いて光とともに宇宙船に吸い込まれそうな気がした。底抜けの恐ろしさみたいなものが感じられる解像度だった。これは絶対に、ビデオじゃ伝わらない。少なくともiPhoneで撮ってyoutubeに上げたものでは無理。削ぎ落とされるビットに宿る800万の神が合唱していた、bjorkの方を向いて。

さて9:30クラブは大盛り上がり。中盤のMonkey Wrenchではデイブがステージ横にあるバーに立ってギターを演奏していた。そして気持ち良く安心して包み込まれるような音の中ではなんと私も、ハードなロックも消化できるのであった。屈強な野郎どもが全員が全力ででかい音を出している、汗だくで太鼓をたたく、シャウトする、完璧なタイミングでメリハリを描き、観客と一体となる。文句なしに、体が、気持ちよかった。渦巻くエネルギーが、ぎりぎりのところで緻密にコントロールされていた。後半、This is a callでは気づけば歌いながら周りの皆さんと拳を上げていた私。子供のようにはしゃいでいた。安心して身を任せられる音響の中で。アンコール4曲を含む19曲のセットが終わったのは12時半過ぎ。帰ってきたヒーローの正しくフレンドリーなパンク・ショーだった。

BjorkとFoo Fightersのoutstandingな音響に共通するのは、どちらも普段、最大規模のフェスティバルでヘッドライナーをつとめるような大物で、小さな箱でやるのは珍しいということ。この翌日、ミュージシャンとして数多くのバンドツアーに参加してきた我がルームメイトのJerry BusherにFoo FightersのPAの良さを話していたら、「そりゃ普段スタジアム満杯の客を満足させてるバンドだから、小さくて音質の良い9:30クラブのような箱での調整なら理想に近い音が出せるだろう」とのことだった。たぶんミュージシャンにとっても、全ての観客がいい音で、息づかいの聞こえる解像度で演奏できるということは得るものが大きいのであろう。

私はショーに行く時、会場でも結構選ぶところがある。そして同じ箱でもミュージシャンや、PA設備と技術者によって音はかなり変わる。ひとつ言えるのは、ミュージシャンが普段やる会場の規模よりかなり小さいところでやるショーは、音質が良いことが期待できる場合が多いということ。そして音響が違えば、音楽ジャンルそのものの印象も大きく変わるということ。The medium is the message。Foo Fightersのコンサートにまた行くかと言われると微妙なのだが、彼らはハードなパンクの、健全でタフな精神は健全でタフな身体に宿ってステージで爆発する、その美しさを教えてくれた。私が住むこの若くワイルドな街の民謡が初めてちょっと理解できた。とても良いパーティだった。

*最近はデトロイトなど過疎化した工業都市にトップの座を譲ってはいるけど2000年頃には殺人、窃盗など人口あたりの発生数が全米1位だったようです。最近でもまだまだほとんどの犯罪で発生率が日本よりかなーり高い。日本大使館が作ったグラフが分かりやすい。アメリカ合衆国の犯罪と治安(wiki)はもっと詳しい。

おまけの映像集

ところで今回ロッキンオンの関連記事を読んだんですが、最新号、私の見間違いか誤植だろうと思いました。2014年じゃなくてこれ1996年の表紙だよね? オアシスとニルバーナって。90年代ロック専門誌っていうニッチなポジションが確立されたんですねロッキンオンは。参考になる。96年頃は実は私も熱心にこの雑誌読んでましたし、実はFoo fightersのファーストアルバムはけっこうよく聴いてました。This is a call最初のシングルはイントロのコーラスが素敵です。怒りと絶望を乗り越えた先の突き抜けたポップ。

Sunday, December 1, 2013

ぱっとしないイギリス旅行記

私は割といろんなとこに行ってるし、はっきりした目的を持った長距離移動には慣れているけど、いわゆる旅行好きではない。生活圏から抜け出すこと、移動することによる精神的な恩恵をはっきり期待して旅行を計画したのは、今回が初めてかもしれない。ここではないどこかの私は、魔法が使えるかもしれない。知らない人が、私をルーザーと嘲笑してくれるかもしれない。一杯のおいしいビールが、神の啓示をもたらしてくれるかもしれない。かき捨てた旅の恥とともに、心の重荷も置いてこられるかもしれない。海を超え未踏の地に立てば。    

暗い。実に暗い。正式な旅の目的はビョークのコンサートと古い友人を訪ねることだが、観測史上まれに見る落ち込み様を気まぐれにざっくばらんに開陳すれば、そんな藁をもつかむ思いだった。毎日泣いていた。海外旅行どころか、できればカーテン閉めて布団にもぐって半年くらいずっと寝ていたかった。そんなタイミングでのひとり旅、吉と出るか凶と出るか。賭けで、祈りだった。大げさに言うのならば。
8月29日。おしゃれ着もサンダルも持たず、機内持ち込みサイズのスーツケースで搭乗。13年ぶり2度目のヨーロッパ。機内で見たBefore midnightで静かに嗚咽。リチャード・リンクレーター監督のBeforeシリーズの3作目は、相変わらずの言葉攻め。主人公二人がすっかり大人の夫婦になってて、映画に爽快な勢いを与える恋のときめきというものもなく、「こいつうぜー」と「あるある」を繰り返す男女のディスコミニケーションな会話を切り取り積み重ねていく。前2作以上に地味だけど痒いところをくすぐる小粋な作品。いつでもどこかが痒いのが人生さ。機内は空いてて快適。

夜10時、ロンドンに着く。ATMでポンドとユーロが選べる。というか通貨の記号もよく分からない。下調べせずに来たのでどちらが使われてるのか分からず、隣の人に聞く。英語は通じるし、普段もアメリカ人で外国人として生活してる私なのであまり外国に来た感はない。地下鉄で街を横断、宿はShoreditch(ショーディッチ)というロンドン東側のエリア。チェックインして近所を散歩。深夜。若者の集まるエリアということで通りに人は多い。近くのバーで、サンフランシスコに住みUKフランスをツアー中のサイケデリック・ロックバンドと知り合い、週末に郊外であるフェスに誘われる。翌日早いからと彼らはすぐ退散。私もジンをロックを1杯飲んで、静かに寝る。悪くない初日。

 翌朝、宿からの眺め。天気いいし気持ちいい。ぴりっと澄んだ空気。高い空。かつてスイス・オーストリア・ハンガリーあたりを旅行したときも確か9月だった。その時も空気が心地よくて、気分が盛り上がった気がする。そうか、これは気持ちの良いヨーロッパの初秋だ。

10分ほど歩いたカフェでコーヒーを飲み、やっと開いたLonely Planetをざっと一読。しかし体調がいまいちで歩いて宿に戻り横になる。元気ない。まさか風邪。。。日が暮れた頃に起きだし、バスに乗り国立美術館へ。そこで働く大学時代の友人さとこさんと会うため。絵はダヴィンチの2枚だけを待ち合わせ前に余った10分ほどで見る。チャイナタウンでお茶飲み中華食べながらお互いの10年をざっとおさらい。久々にまとまった量の日本語を話す。

それからロンドン東部に戻り、さとこさんのお友達と合流しDalstonのゲイナイトへ。小さなパーティ、ゲイハウス/ディスコ、平和に踊る人々、熱気、安全な場所。私が今住む町には、こういう、換気の悪い小さな地下のクラブはない。大学生の頃によく遊んでいた新宿二丁目のクラブを思い出す。faghagというアイデンティティを最近忘れていた。体調はすぐれない。ここから4日くらい、ロンドン東部の狭い範囲のみを移動、おもに宿周辺に留まる。

翌日から本格的に風邪。昼間はだいたいカーテン閉めて布団にもぐってずっと寝ていた。日が暮れる頃に、仕事が終わって帰宅したさとこさんのところにバスで行って夜ご飯を食べさせてもらう。食べ終わるとぐったりしてまた宿に戻り寝る。精神的にもこれ以上に沈めない闇の底をうろうろしていた。Shoreditchで一番悲しい女、それが私。インターネットがあればメールやSNSだけじゃなく電話のテキストも使えてしまう昨今、海外旅行に行ったからって普段の生活圏を精神的に離れることは難しい。いろんな意味でこんなはずじゃなかった。でも、じゃあどんなはずだったのか?

安宿のシャワーが使いにくいので友達の家でシャワーをあびることにして、寝癖ごとティータオルで 頭を巻く。

イギリス(ロンドン?)のアパートは洗濯機がキッチンのシンク横にあることが多いようだ。 さとこさんのお友達みちこさんが食器を洗う。

風邪のピークが過ぎた3日後、みちこさんに誘われ、ノイズ音楽のイベントにも行く。マンションの1室で、飲み物持ち込んでよくて。大都市にいることを実感する。ほっとする。この時点でまだ、明るい時間にほとんど外を歩いていない。食事も、さとこさんちと宿の隣のアジア食材店の冷凍食品以外ほとんど食べてない。

翌ロンドン5日目、やっと風邪が過ぎていき、上を向いて歩ける。宿から駅に歩く間に見つけた服屋でローカルブランドのサンプルセール品を買う。一点モノの奇抜な服がたくさんある。こういう楽しみはいま住んでる小さな街にはない。天気も相変わらず最高。そしてまたさとこさんちへ。スコーンを焼いてくれた。ジャムも手作り。クロテッドクリームとジャムをつけて食べる。するっとお腹に収まる。紅茶によく合う。このあとイギリス滞在中いろんなところでスコーンを食べてみたのだが、結局これが一番おいしかった。そしてビョークの会場へバスと電車を乗り継ぎ向かう。

会場の前。眺めがいい。4ヶ月くらい前にこのコンサートのチケットを買っていなかったら、このイギリス旅行もなかった。この日のビョークは体調不良っぽかった。歌詞を間違えるのが何度もあった。しかも将来のリリース用に撮影してるとかで、やり直した曲が3曲。音響もこれでいいのかという雑な設定で、なんか色々としっくりこないショーだった。憂鬱な私は気に入らない点ばかり見つけてしまうのかもしれないけれど。それにしても。

 コンサートにはさとこさんの友人、若きフランス人N君も来ていた。終了後に合流し、乗客もまばらなバス二階でビールを飲む。オリーブも食べる。何気ないこういう場面が、妙に楽しい病み上がり。いま住んでる街ではバスでビールを楽しむのは色んな意味でちょっと無理だしね。同じ東京の大学に通った我々、10年後の今、ひとりはアメリカ英語を話し、もうひとりはイギリス英語を話す。私もイギリスにいる間、質問文の語尾のイントネーションは下げてみる。質問文に限らず語尾の上げ下げが、英米で大きく違う。アメリカはアゲアゲである。普段からついていけない。

翌日。Shoreditchに近いBrick Laneの割とおいしいコーヒーを出すカフェで食べたサンドイッチがまずくて思わず写真を撮る。まずいというか、素材も悪くないのだが、味付けがない。飯にうまいまずいをあまり求めない文化をかいま見る。作り間違えたのかもしれないけど。それにしても。

 宿の前でバスを待つ。自転車やスクーター、バイクがいっぱい走っている。渋滞するバスや車をすり抜けていく。バイク乗りがみんな防水な感じの専用服&ブーツで参考になった。

この宿、場所がとても良かった。ダウンタウンと住宅街のちょうど境で。このあとさとこさんは休暇でトルコに旅だち、私はこの宿をチェックアウトし、さらにディープなロンドン東部のHackney(ハックニー)のさとこさん宅に滞在する。

ロンドン内に何カ所か支店のあるMonmouth coffeeにて。どの豆を買うか迷っていたら、3種類サンプルで出してくれた。どれもおいしい。豆を洗わず天日で自然乾燥させる製法のコーヒーの味に目覚める。これにまろやかな黒砂糖を混ぜたのが、こういうコーヒーもあるのかという衝撃的なものだった。同じ豆を買い帰国して自宅で作ってみてもあの見事な深みが出ない。水のせいか、なんだろう。
日本の精進料理を見つけ、行ってみる。ホグワーツ行き特急の始発駅King's crossの近く。そこで手に取った日本を紹介する英語フリーペーパーで、神宮前のバーbonoboの記事を見つける。東京で恋しい場所のひとつに、こんなところで遭遇するとは。料理は真心を感じる暖かい和食で、おいしゅうございました。(Itadaki Zen

そして生ガキ。テート・モダン美術館の近くにあるBorough Marketという、グルメ食材が集まるマーケットで。 鮮度なのか何なのか分からないけど、臭みのまったくない輪郭のはっきりした味。うんまい。


牡蠣メニュー。シーズン始まったばかり。いろんな店で何種類か食べた。やはり養殖業者/漁師直営店が、鮮度で他を圧倒するようだ。

 初めて、ほんもののモツァレラ(水牛の)を食べた。びっくりした。酸味に甘みに塩みに口の中での全方向への力強い広がりが私の知ってるモツァレラと全く違った。ヨーロッパ外ではめったに食べられないようだ。イタリア行かなきゃ。
フランス産のいちじく。トルコ産のはたくさん売っててけっこう食べたんだけど、このフランス産のは格違いだった。いちじくにつきものだと思っていたえぐみが全くない。うっとりできるまろやかあな甘さ。値段もさすが、トルコ産の数倍。テムズ川にて。

以上が、おいしかったもの。他は全体的に、食文化のノリは今住んでる場所とよく似てるな、と。やっぱり肉卵乳製品小麦が多いとか、おいしいのは移民系料理とか、サンドイッチが多いとか、フードトラック系のポップアップが人気で看板はかっこよさげだが高くておいしくないとか、安くて美味しくかつ洗練されたものは見つけるのが難しそうとか。ヨーロッパ各国の美味しいものに近いのは良い。やっぱりイタリアとフランス行かないとな。

 ロンドン橋の隣の隣の橋を歩いて渡る。あふれる柔らかい光が、ターナーの絵のようだった。とはいえターナーの絵がいっぱいあるらしいテート美術館には行ってもいないのだが。そもそも絵はほとんど見てない。博物館にも行ってない。ミュージカルも見てない。展望台にも登ってない。宮殿にも寺院にも行ってない。長い時間を、ベッドの上と、バスの中で過ごした。

以上がぱっとしない私のロンドン旅行記。もちろんそれなりに面白いことはあったが、何しろ全体的に悲しいので、こうやって書いて一目にさらし、正式に過去の思い出としたい。焼くのに失敗したパイをお裾分けする感じでごめん。冴えない私も愛してくれ。

このあとケンブリッジにも行き、お世話になった友人ちもと家が全員風邪で、弱っていた私もしっかりそれを拾い翌日はまたベッドで過ごした。夕方近くにぼちぼち歩いて街を見たが、観光名所はもう閉まっていた。ヨーロッパの古い小さな街らしく、古い建物に石畳の細い道、中心地に店が集まって、静かできれいだった。住みやすそうだが、魚でも釣りに行かないと食的に行き詰まる予感がする。
ちもと息子はスパイダーマンとアングリーバードが大好き。やはり10年以上の付き合いのある友達と話すのはいいものである。それだけでも海を越える価値はある、なんてことも、10年前は考えたこともなかったね。

Saturday, April 27, 2013

Neighbor doves

3/14 Dove couple hanging out on our balcony. 

3/22 They built a nest on the tree right next to our balcony. 
I put a strawberry, grapes and nuts on the balcony near the nest but they didn't take any of them.

4/2 Wow. A baby. I thought you were just sitting in the nest but actually baby sitting.


 4/7 So the one that is sitting all day is the mother and is this the father visiting?

4/8 OK they have two kids.

4/8 Oh I see you guys switch roles. Cool.

4/9 Now the babies are getting big, it looks like they are carrying the parent. 
The temperature got about 88f this day. 

4/10 Wait where are the parents?! (Panic)
Did you realize how the green leaves got bigger and more? 

4/10 Oh right there on the next tree. Like dating again, huh?

4/12 !?!? 

4/12 HEY!!!!
  
The parents were hanging out around here for a day or two more, then gone too. 



Thursday, March 14, 2013

誕生日ありがとうございます


先日3月6日に33歳になりました。
お祝いメッセージをくれた皆様ありがとうございます。

誕生日に、いつも考えないことを改めて考えるという習慣はないのですが、facebookのおかげでどっさりメッセージを頂いたので、そのお礼のようなものをこちらに書こうと思います。と、なかなか会えない人が多いので、近況報告的な内容で。

宙音は元気でやっております。渡米して4年弱が経ちます。なんだか色々ありましたが、やっと、息つく暇のある生活をしています。ここ2年半で、2ヶ月の日本滞在と「繋ぎ」の短期サブレット物件も含めると約6箇所に住んでいます。シャワーのないパンクハウスから室内プール付きアパート、友人宅の客間からAirBnB物件まで。今の家に引っ越して6ヶ月目。しばらくここに住みます。ふぅ。

仕事っていうか食い扶持も、転々としました。フリーペーパーのスタッフ、レストラン案内係、弁護士秘書、TVクルーの運転手、そしてこの半年は和食レストランで仕込みとウエイトレスをやっています。ずっと立ち仕事。

例えば金曜日は昼12時から仕込み。調理場用の靴をはいてエプロンをして、布巾を洗って絞り、まな板をふき、米を炊き、と一日は始まります。3時くらいから1時間ほどお休みをもらって、だいたい近所のスーパーでおやつを買ってくるか、カフェでボケっとして、4時に帰ってきてまかないをみんなで食べたら今度はウエイトレスとして開店準備。5時開店、12時閉店。後片付けをして、12時半頃仕事終わり。土曜日も同じスケジュール。お店は2階建てで、私は1階を担当することが多いので、飲み物やレジがある2階と階段で行き来します。一晩で軽く50往復はするんじゃないかな。元気そうでしょ。

歩いても片道25分と短い距離ですが、通勤には主にバイクを使っています。しばらく自転車生活だったんだけど、盗まれた。ついでに家に空き巣も入って色々盗まれた。ワイルドですわ。徒歩通勤もいいけど、暗くなってからこの辺を歩くのは危険。バイクはBMW F650CS。乗り始めたのが去年秋だったので、寒くなってあまり乗ってないけど、去年の暖かい日に隣町ボルチモアまでは行きました。往復130キロくらい。この春夏が楽しみ。一番最初に練習でまたがってみたときに、エンジン入れる前にバランス崩して、転んで肋骨を痛めました。さらにその2日後に自転車で転んで同じところを打って、もうみっちり一ヶ月、痛かった。息できないぃ、っていう。あれは辛かった。やはり650CC、重いわな。秘書時代の自分では乗りこなせてなかったんじゃないかな、と思う。調理場って力仕事だからね。さらに野郎の同僚たちの中で筋肉量の少ない私は気合いと知恵と、てこの原理で毎日臨んでいるわけです。

もうしばらく、こんな生活をするんじゃないかなと思います。

そんな感じです。特に面白いまとめはないです。ごきげんよう。

誕生日は仕事場で、サプライズなラムチョップにキャンドルをともして、祝ってもらいました。(ラム大好き)

Instagramも始めました。
http://instagram.com/soraneyama

Sunday, January 20, 2013

たまには140字以上の文章も書いてみようよということでごく軽い話題をひとつ

ワシントンからこんにちは。お久しぶりのそらねです。アケオメ!

いま、とあるレストランで働いてます。和食でメニューにおにぎりもあり、他のアイテムより値段が安いこともあって(おにぎりですからね)よく注文があります。が、おにぎりを食べたことがないと思われるアメリカ人たちが、日本人には見られない食べ方をしている様が散見されます。というわけで以下、皆さんも参考にしてみて下さい。(何の?) 

アメリカ人たちの独創的なおにぎりの食べ方 
・箸でご飯を食べて、のりは残す
・手でご飯を押し出しながら、のりは残してご飯部分だけ食べる
・のり巻きの要領で、しょうゆにつけて食べる(一口目から)
・のりを持ち上げて具の部分にしょうゆをかけてから食べる(味見せずに)
 ・押して巻いてのり巻き状にした上で、しょうゆにつけて食べる
・のりを持ち上げて付け合わせのきゅうり柴漬けをご飯部分に乗せて、のりを戻した上でしょうゆにつけて食べる 

でマネージャーから、正しい食べ方を説明してやって、と指示があるんでテーブルに運んだ際に、「手でつかんでかぶりついて食べて下さい」って言うんだけど、「ああ、そうなのねありがとう」って人と「そりゃそうでしょw」って人では前者のが多いですね。 ほっ。

それではまた、近々。コトヨロ!

 ↓働いているお店の入り口(拾った写真)
  *2/1-2/10まで日本に滞在します。see you.

Monday, March 19, 2012

Bjorkという生き物

先月NYでBjorkのショーを見てからというものの、youtubeでbjorkのライブビデオを見まくっているのですが、ユーザーコメントの中に、「To understand and appreciate Bjork is to understand and appreciate freedom.」(ビョークを理解しその存在に感謝することは、自由を理解し感謝することだ)というものがあって、まさにその通りと思う。春の訪れと私とあなたの新たな角出をBjorkと祝いましょうか。そして先月のBiophiliaツアーのレビューと、いかにyoutubeなんかじゃライブの良さが伝わらないかって話しは次回にします。

Interview & "I miss you" from 1996.
埋め込めないのでリンク
曲は6分過ぎから始まりますが、最大のキュン死注意はトークで恋人について語る5分26秒目あたり。動きのかわいさに悶絶。


"Possibly maybe" at National Theater in Iceland from 1999
音程を外すことがほとんどないこの人、かつてインタビューで「リハーサルはしない。セックスのリハーサルをしないのと同じ」と言ってた。


"The anchor song" in Cambridge from たぶん1999
前半アイスランド語、後半英語。こういう繊細な表現はyoutubeなんかじゃ伝わりにくいけど、それでも2分58秒目の静寂に涙。

"Big time sensuality" at MTV Unplugged from 2002.

映像と音がちょっとずれているんだけど、音質が割と良くてそして黄色いドレスがかわいすぎる。このライブはDVDで出ていてとても良いです。


"Cocoon" from たぶん2002頃
隣の演者の背中をなでる役割の人がステージにいる。環境によって曲のアレンジを大きく変えるのもBjorkの特長。


"All is full of love"

貫禄。

"Hyper ballad" from 2007頃
アゲアゲです。Merci!


"Unravel" at River Side church NYC from 2007
教会の中で、マイク使わずに歌ってます。


オマケ。日本語字幕つきインタビュー from 2001
アーティストとして自分がやろうとしているのは、神話と未来を繋ぐこと、と。

オマケ2。16歳のビョークはポケモンでした。


Sunday, December 25, 2011

Amon TobinのISAMツアー、すごかった

オラ・アミーゴ。

 

(↑ツアーのトレーラー。この最初の静止画に映ってるルービックキューブみたいなのが、舞台装置の仕舞い方の図。複数の立方体が、貨物航空機の規定サイズいっぱいにパズルのように詰め込まれてる。)

何かの拍子にある音楽が耳について離れず、頭でずっと鳴っているということありますよね? 10月26日にNYはブルックリンのメイソニック寺院でアモン・トビンを見たあとぴったり1週間ずっと、このライブで演奏された曲がかわるがわる、私の脳内でシャッフルされっぱなしになっていた。その度に記憶が呼び戻され、しばし思い出してから我に返っては「ワオ。すごいものを見た。」と感嘆してた。

すごかった。Amon Tobin、ISAM Tour。

ヨーロッパ、アメリカで、フェス公演以外が全てソールドアウト。私が行ったブルックリンも、追加公演2回含め全3公演売り切れ。

(↑ISAM はアイサムと読みます。)

(↑会場 Brooklyn Masonic Temple の外観)

10月26日、水曜日。19時開場、20時開演。会場は寺院で、クラブっぽい雰囲気は全くない。キャパ1000人前後。(ツアー中で小さい方の会場。シカゴは5000とか。)バーも折りたたみのテーブルで、プロのバーテンっぽくないフツーの若者がクーラーボックスから缶ビール(何故かアサヒ・スーパードライのみ)などを出して売ってる。客は先に別のテーブルでチケットを買って交換する学園祭的スタイルで手作り感が落ち着く。開場を並んで待って入った客はほとんど皆ステージを一望できる二階の席を確保し、ゆったり待っている。



(↑こんな感じの二階席。)

私は踊る気満々でフロア最前列で待つ。木の床だ。

入場から2時間の9時半頃、Ninja Tuneの後輩女子シンガーEmikaのオープナーでじらされ切ったころにやっと会場は満員。カーテンが開き舞台装置がお披露目されるとすぐアモン登場。最初の一音からことごとく立ちつくした。しばし目が点、耳がダンボ。そして数秒後、我に返った。「うっはー!」と笑うしかなかった。なにこれ??


(↑End Song from Melissa Phillips on Vimeo).

このビデオは音質はひどいけど、この映像が目の前いっぱいに広がってて後ろには1000人の観客、爆音でアモン王子がプレイしてるところを想像してみて欲しい。鳥肌。

ステージ上に立方体が積み上げてある。私の目の前にはちょっと大きめの立方体、その中にアモン・トビンが入っていて、時々ライトが付いては彼がビートに合わせて体を動かしながら演奏してるのを映しだす。しかし全体に目をやると、静止してるはずの立方体が音に合わせて動いてる(踊っている)ようにしか見えないのだ。(え、私しらふだよね??) 

唖然と立ちつくしてはたまに歓声をあげる。まに見回しても周りの客もみな同じようにただただ間抜け面してたと思う。始まって40分くらいか、やっと、ダンス・ミュージックと言えるようなビートを刻み始めた。キタキター!と思う間もなくビジュアルもさらにパワーアップして頭くらくら体びりびり。これはヤバい。(Youtubeに投稿されたビデオのコメントで「アシッド食ってなくてマジ良かった!ww」ってのがあった。)ネクストレベル過ぎであご外れるわ。



音とビジュアルのシンクロ率が異常。


(↑Amon Tobin from Ciara Phelan on Vimeo). 

目の錯覚具合も異常。

これ目ですか耳ですか。私の感覚、混乱しております。

アンコールになってやっと耳慣れたダンス・ビート。かっこええ! そうそうアモン・トビンってヒップホップだってたよね、って。進化しすぎ。

紙吹雪、2回のアンコール、鳴りやまない歓声。タバコを手にもって何度もおじぎするステージ上のアモン・トビン。泣いてたように見えた。たぶん泣いてた。納得。手で胸を押さえて、頭を下げていた。ひとり、ステージ上で。




(↑私が見た日。)

なんとかホテルに帰ったら、紙吹雪が靴や服の中に入ってた。後で知ったけど、どっかのクラブでアフターパーティがあって、アモン・トビンがDJセットやってたらしい。そんなことも知らぬまま私は幸せに燃え尽きてました。深夜前に。


何だか分からないけどすごく、美しいものを見た。2ヶ月経つけどやはり、それしか言えない。それ以上言ったら無粋。でも。LEDの洪水が、ヘビーな機械音と壊れるぎりぎりのビートが、なぜこんなにも体に染みていくのか。飛び立つ航空機、リアルタイムで立方体に投影されるアモン、意志を持った群れのように動く立方体。なぜ心の真ん中を優しく撫でられたような震えを感じるのか。外は激しいビート、中は潮が引いていくように静か。この人はどこかにたどり着こうとしている。いや、どこかに戻ろうとしている。暴力的なまでにもがいているようで、芯は悠然と。彼の中だけにあるどこか美しい場所に向かう旅に、確かに私は同行していた。


今のところ予定されてる最後で唯一のISAM Tour公演が、12/31サンフランシスコの年越しイベント。お近くの方はぜひ。特にメディア・アートクラスタの皆さん、ライブ音楽好きの皆さん。間違いなく、ひとり×ライブ音楽の、現在のひとつの頂点にいる。これが10年20年後に美術館に置かれるのを待たずに、会場に見に行くべきと思う。先日ぶらり入った美術館で20年前のナム・ジュン・パイクの作品が静かに置かれているのを見て、それだけは年を超える前に言っておこうと思いました。生に飛び込め。切符を受け取れ。ハッピー・ニュー・イヤー!





技術的なところをもうちょっと知りたい人は、この制作裏舞台のビデオを。


ISAMの音の作り方はこちら。