Friday, February 5, 2010

片付けと怒り、そしてジョニ・ミッチェル

「片付け」という概念を理解し始めたのは、ここ2、3年という気がする。今でも苦手。モノを整理するのが苦手。モノを分類して仕舞う場所を覚えて、毎回そこに戻すというのは、すごく難しいと思う。要らない物なんて無いし。

取捨選択には指針が必要だ。何かを人生から切り捨てるのは、それと一緒に未来に関する可能性も捨ててしまうことなのだ。捨てることよって手に入る別の可能性が見えていないと出来ない。人生にある程度の覚悟がなきゃ掃除はできない。いつだって別れは辛い。一度は愛した世界の破片を、どうして手放せよう? 役に立たない、邪魔、なんてひどいことをどうして言えよう? 心を動かされたから、手に入れたはずなのに。

"I remember that time you told me you said
'Love is touching souls'
Surely you touched mine"

あなたがこう言った時のことを覚えてるわ
「愛とは、魂に触れること」
確かにあなたは私のに触れた

ジョニ・ミッチェルは1972年発売の名作アルバム「Blue」の収録曲「A case of you」の中でこう歌った。


72年のライブ(Joni Mitchell singing "A case of you" live in 1972)

実は歌詞の1行目で、この相手とは別れていることが分かる。魂に触れ合っても、手放さなきゃいけない時が来る。なぜなら全ては手に入らないから。本当に欲しいものを手に入れなきゃいけないから。そのために、ぎりぎりまで積み荷を降ろさないといけないから。

片付け方が分かるようになってきたのと同じ頃に、自分の中に「怒り」という感情を見つけ始めた気がする。若い頃にはたと、自分は他人を嫌いになることがまずないと気づいた。強いて言えば「嫌い」という感情が嫌いだった。どんな事情と経過があってこのような私にとって好ましくない結果になっているかも分かり様がないのに、誰かに責任を押し付けるなんて乱暴すぎる。

でも今は違う。自分にとって許しがたい人の言動はある。そう思う。欲しいものがあるから。生きてることがそもそも自分勝手ですが何か?と反撃することにしたから。オマエは降ろしたい積み荷だ。他人が勝手に私の大事な物を壊す。オイオイオイオイ。それが怒りだ。一方で、私の人生からの脱落を告げると、静かに受け入れてくれるのが片付け。

ジョニ・ミッチェルは1943年生まれだから、上のライブでは今の私と同じ29歳。そしてこの下のライブは同じ曲だけど、1983年のライブ。約10年後の40歳。声と歌い方の変化を聞いて欲しい。


Joni Mitchell singing "A case of you" live in 1983

失った積み荷と、手に入れた大切なものがはっきり聞こえないだろうか。生があらゆるレベルでの絶え間ない変化だとしたら、すごく生を体現していないだろうか。

3年くらい前にニューヨークのカフェでふと手に取ったビレッジボイスに、ジョニ・ミッチェルに関する記事が出ていた。ちょうど彼女が久々のアルバムをスターバックスの"Hear Music label"から出した直後で、そのレビューだった。レビュワーの意見を簡単にまとめると、「かつては革新的で鋭いアーティストだった人が、個性もなく無駄に高いコーヒー・チェーンにスポンサーされて店内に並んでるのは皮肉だし、そのせいで歌詞も胸に響かない」みたいな皮肉っぽい内容だった。今でも苦々しく覚えている。

私はビレッジボイスの読者だったことはないし、このライターは愛ゆえに厳しいことを言っていたのかもしれない。でもやっぱり、スターバックスのレーベルだからってことで評価を下げるのは音楽レビューとしてはダメだ。そんなことでアーティストの作品を正面から聴けなくなっちゃう人に、アレコレ言われる筋合いはジョニ・ミッチェルにはない。読んだ当時はなんだかモヤモヤ違和感があるだけだったが、今思い出してみると感じるのはちょっとした怒りだ。

これでやっとこのビレッジボイスの記事のことを、要らないモノとして記憶のゴミ箱にそっと入れることが出来る気がする。ジョニ・ミッチェルの歌には、私にとって大事なものがたくさん詰まっているんだ。




*ちなみに検索したらありました。これがその記事。片付けについて気づいたことを300字くらいでメモしてみようと思ったら、なんだかジョニが飛び入り参加して来たりとまたいつも通り長くなった。読んでくれてありがとう。

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