Monday, February 8, 2010

言葉の壁と音楽

ダンスミュージックなんか特にそうだけど、音楽というのは言語より深い層で人同士を結ぶ力がある。でも私は言葉も好き。みんな多かれ少なかれ言葉という魔法に取り付かれている。私は音楽も好きだし、言葉を使った音楽も好きだ。言葉は強いのでどうしても主役になってしまいがちだけど、音色という脇役を贅沢に使って引き立てられた言葉が私の中に響く気持ち良さは他に代えがたい。私は日本語以外に英語をまあまあ使えるけど、これは小さい頃に英語の歌に心を動かされた経験がかなり影響しているんじゃないかな、と思う。

中学校で教科として教えられたのが英語との出会いという人も多いだろう。そこでは「その表現で相手は何を感じるか」、「あなたは何を感じたか」、よりも「それは文法的に間違ってないかどうか」を重視する。そんな環境では「言葉の魔法」を感じられないのも無理はない。その体験も生々しいままに英語の歌を耳にしても、自分の歌だ、とは感じにくいだろう。そしてポップ音楽を「洋楽」と「邦楽」に分けて呼びはじめると、「外国語の歌」=「歌詞は無視して楽しむもの」と何となく認識してしまう。

ただの思いつきだったのだが、かつて試しにジョニ・ミッチェルの歌詞を父の出身地の秋田弁で訳してみたことがある。この「River」という曲は、1972年のアルバム「Blue」の曲で、カナダからカリフォルニアに移り住んだジョニがクリスマスの時期に、雪も降らず木も緑のままの街で故郷の冬景色を思うという状況を描いていると言われている。ここには故郷を思う人なら誰でも共通する感情が流れているし、秋田から東京にやってきた人が景色を見て思うことにはかなり重なるんじゃなかと思うのだ。そんな感じで、試しに読みながら聴いてみて欲しい。

とはいっても私は秋田弁は話せないので、秋田弁コンバータを使ってそれっぽくしてみただけ。それでも、よく分からない方言には言葉の頑固さをゆるめるて、翻訳であっても魔法が効きやすくする作用があるような気がしませんか。なんか笑えるし。



"River"

クリスマスがやってくる
あっこじゃ、もみの木さ切り出して
トナカイの飾りさ庭置いで
喜びと平和の歌さうだう
あぁ川さあったなら滑って行がさるんだども

でもここいらじゃ雪さふらね
そいどごか緑さ青々としたまんまだ
おらはこいがらたっぷりじぇんこ(お金)どご稼ぐ
へばこっちゃおがしな風景から抜け出すがら
あぁ川さあったなら滑って行がさるんだども

すげ長い川さあったらええのに
そしたら速く滑って飛んでるみたいに
あぁ川さあったなら滑って行がさるんだども
愛する人どご泣かせてしまった

あいつは一生懸命おらの助けになろうとした
おらどご楽にしてくれたんだもの
いたずらっぽく愛してくれて
おらはもう膝に力が入らないくらいだズ
あぁ川さあったなら滑って行がさるんだども

おらは扱いにぐぐで
自分勝手で、沈みがち
んでもって最愛の人どご失ってしまった
いままでで最高の人どご
あぁ川さあったなら滑って行ってしまえるんだども

すげ長い川さあったらええのに
そしたら速く滑って飛んでるみたいに
川さあったなら滑って行ってしまえるんだども
愛する人に、さよならどご言わせてしまった

クリスマスがやってくる
あそこらじゃ、もみの木さ切って
トナカイの飾りさ置いで
喜びと平和の歌さうだう
あぁ川さあったなら滑って行ってしまえるんだども

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