Thursday, March 18, 2010

「日本語が亡びるとき」を読んだ



日本語で読み書きするのが好きで、外国語(特に英語)でも読み書きをする人には、特にずっしり響く内容だと思う。

ぼんやりと考えてたことをビシっと説明してもらった時の気持ち良さが確かにあった。筆者は12歳でアメリカに移り住み、イエール大学・大学院でフランス文学を専攻してから日本近代文学を大学で教えているという人なので、私のぼんやりをいくら重ねても辿り着けない密度で深い絶望感を表している。徹頭徹尾、暗い。でもそれが日本語の現状であると。カバーのデザインも遊びゼロで息苦しいが、現状から目をそらすなと言われてるような感じすら。

言葉が通貨みたいなものだとしたら、日本語は弱い。何せ日本人しか使ってないし、インターネット上で情報を探すとその流通量の少なさに気づかざるをえない。出版される本となるとさらに顕著と思う。これは日本でも感じていたこと。(特に私がインターネットを使い始めた90年代後半は、英語と日本語の情報量の差は歴然としていた。)

それから私は英日の翻訳がけっこう好きだ。そして翻訳がすごく難しいことであることも身をもって知っている。これに関しては、アメリカに来てからその思いをさらに強くした。「失われるニュアンスがある」なんて甘いもんじゃない。何を美しいと思うか、何を大切と思うか、いわゆる価値観を共有していない人と芸術が共有できるだろうか。ある程度は、出来る。でもアメリカに来て違う文化の人々と生活する中で、私が思っていたその「ある程度」がかなり楽観的だったことを思い知った。*

tumblrで例えると全文reblogしたいが、そうもいかないので抜き出す。

たとえば、どうやってかれらが知ることができるでしょう。どのような文学が英語に翻訳されるかというとき、主題からいっても、言葉の使い方からいっても、英語に翻訳されやすいものが自然に選ばれてしまうということを。すなわち、英語の世界観を強化するようなものばかりが、知らず知らずのうちに英語に翻訳されてしまうということを。どうやってかれらは知ることができるでしょう。かくしてそこには永続する、円環構造をした、世界の解釈法ができてしまっているということを。そして、そのなかには、英語で理解しやすい異国趣味などというものまで入りこんでしまっているということを。どうやってかれらが知ることができるでしょう。この円環構造をした世界の解釈法が、あの名誉あるノーベル文学賞を可能にし、しかも、それによって、さらに強化されてしまっていることを。さらには、ノーベル文学賞とは「翻訳」に内在するすべての問題を、必然的に抑圧してしまっていることを。


ポゥ。そうですホント。話し言葉ですら毎日もどかしい。

それから筆者は、書き言葉としての日本語の特異性を説明していく。この部分は考えたことがなかったので、圧倒されるばかり。どんどん絶望が深く深くなっていく。

興味がある人はぜひ読んでみて欲しい。特に日本語の書き手。筆者の結論は、「せめて学校で日本の近代文学を読ませよ」。せめて興味を持った生徒だけでも日本の豊かな文学の図書館に自由にアクセスできるように、その基礎教育を提供していくべき、と。

反省した。漱石の作品ですらまともに全部読んでいない。そこは責任ある大人として通るべきとこだと思うので、読書ブーム到来をここに宣言する。あ、でもゆっくり楽しく。


*この辺の根本的な文化の違いについては、直前に読んだ「森林の思考・砂漠の思考」も面白かった。文明の成立した背景(気候の違いを中心に)から現代までの文化・文明の流れが説明されてて、かなり納得な内容だった。1978年出版。

No comments: