Sunday, October 11, 2009

初めてのランニングレース

近所のClarendonという町で10キロマラソンがあって、友達に誘われたので出場した。初めてのランニングレースである。

ランニングシューズを買って2年、当時今より10キロ近く体重のあった私は2分と走ることが出来ず、まずは歩くことから始めた。今回初めてレースに出てやっと「私はランナーだ」と言える気がしたよ。

最初の半年くらいはとにかく運動不足で、歩いたって息切れで汗だく。その後も横っ腹が痛みと付き合いながら走る&歩くを繰り返した。今から半年前くらいにやっと5キロ以上を続けて走れるようになったのだが、それでも胃が気持ち悪くて15分程度で切り上げることも多々。ここ2年は落ち着きのない生活で継続して頻繁に走ることは出来なかったが、走ることを完全に止めることはなかった。

西麻布時代は、村上春樹を思いながら神宮外苑を走ったものだ。

このレースに出るまで、外で走ったのは最長で6キロ程度だったと思う。そんな状態で、10キロマラソンに出てみた。

結果、途中歩きつつ1時間14分でゴールした。完走者約880人中860番目くらいであった。もちろん、大満足である。吐き気でリタイアせずに完走しただけで嬉しい。

普段運動してない友達が東京マラソンに応募して完走したり、普段走らない友達が気まぐれにジムに行って1時間くらい走れたりするのを目にするにつけ、2年かかってやっと30分続けて走れるようになった自分がランニングを続けているのは滑稽に感じる。(そういえば小学校のマラソン大会が本当に嫌で、いつもビリから2番目とかだった。)

その滑稽さこそが、走る意味だ。意味が無いことをすることに意味がある。大人になったらだいたいやることには何でも意味があって、社会貢献だとかお金稼ぎとか、人助けとか自己実現とか、その目的にどれほど近づいたか、どれくらい意味があったかって自分の行動を批判しちゃう。小さな頭を加熱させてまで、考え過ぎちゃうのだ。それって疲れる。

私みたいに肥大化した自我に悩まされる人間はすぐに行き止まりにぶつかって、現代人のストレス症状一覧の見本みたいなことになってしまう。子供や動物がのびのびしてるのは、遊んでばかりいるからだ。遊びには、成功も失敗もないし、勝ち負けもない。

車なら数分で行ける距離を、数十分かけて苦しい思いをして、痛い思いをして、汗だくの不格好をさらして、この体だけで移動しようってほどアホらしいことはない。どうしたって笑えてくる。コメディなんかじゃ、簡単に避けられる理由で痛い思いをする人を見て人は笑う。(上から落ちてくるヤカンに当たったのを見て、客は大笑いしてしまう。)人間はそういう心理システムになっているらしい。何にも役に立たないのに苦しい思いをするのは、体を張ったギャグだ。観客は自分だけ。自分による、自分だけのための喜劇。意思が行動を決めるんじゃなくて、行動が意思を決めるってことを、走ってる間は忘れずに済む。


↓ゴール直後



↓私より速かった犬

2 comments:

らくご猫 said...

オチカレー。

sora-changより速かった犬、ってキャプションに思わず笑ったw

東京マラソンに落選してやっぱりホっとしている私ですが、今週ついにランニングシューズを買うので、無理せず走るぞー。

山平宙音 said...

おお、オチカリー。

犬、道路際のお巡りさんに頭なでられたりしてて余裕そうだったよ。

私もそろそろ次のランニングシューズを買おうかな。